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「5,604……5,605……5,606……」
延々と続くカウントと共にドゥンドゥンと鈍い音が室内に響き渡る。
「5,607……5,608……5,609……」
光太郎は数歩下がっては壁にぶつかるということをひたすら延々と繰り返している。
日も暮れてきた薄暗い夕方の部屋、灯りもつけずに一心不乱に壁に向かって突進を繰り返す孝太郎。
詩織に面白いものを見せてやる、と呼ばれて空手部の活動をサボってやってきたのはいいものの、私は何を見せられているんだろう。
「……何してるの?」
「壁にぶつかっている」
5,610でカウントを一度止めた光太郎が大真面目な表情で私の方を向く。アホみたいなことをしながら無駄に凛々しい表情でこっちを見ないでほしい。
それはそうだろう。光太郎が目の前で繰り広げている光景はそのものだし、もっと根源的な部分で人生の壁にぶつかっている気もする。
「今日、物理学の講義で聞いたんだが、トンネル効果というものを使えば人間が壁をすり抜けられる可能性があるらしい」
「……それで?」
「せっかくだから、人間が壁を超える瞬間を詩織にも見せてやる」
光太郎は私の貴重な大学生活をなんだと思っているのだろう。それとも、呼ばれてホイホイついてきた私の方にも問題があるのだろうか。
あと、アホに中途半端な知識を授けるのはやめてほしい。トンネル効果自体は実在の現象で、ざっくりいうと粒子を壁にぶつけると量子力学的には壁の向こう側に粒子が存在する可能性がある、といったもの。
だけど、その現象で体が壁をすり抜けられる確率は天文学的――仮に全人類が毎秒壁にぶつかり続けるという愚行を宇宙の誕生から今まで140億年続けてもたりない――に小さいはずだ。
光太郎にはぜひ物理的に壁を超える前に、人間的に壁を越えて成長してほしい。
「だいたい、壁なんて抜けてどうしたいの?」
「……隣に住むお姉さんとお近づきになる」
「お近づきになるって、そういう物理的な意味じゃないから!」
光太郎の住んでいるのは安かろう悪かろうという表現がぴったりのオンボロアパートだけど、何故か光太郎の隣には綺麗なお姉さんが住んでいて、光太郎はベタ惚れしているらしかった。
隣に住んでいるのがこんな不審者だとわかればすぐに引っ越していきそうだけど、今日だってお姉さんの留守を狙って壁抜けに挑戦するくらいの理性は光太郎にも残っていて、私はやきもきする日々を過ごしている。
いや、別に、やきもきっていうのはいつか光太郎がやらかして捕まるんじゃないかと心配という意味で。
「お近づきになりたいなら、正々堂々玄関から行けばいいじゃない」
「そんな真似、恥ずかしくてできるわけないだろ」
同級生の前でひたすら壁に向かって突進を繰り返すよりは恥ずかしくないと思う。女子として見られていないのは察していたけど、人間として見られているかすら怪しくなってきた。
「止めないでくれ、詩織。あと一回、あと一回でなんかこう潜り抜けられそうな気がするんだ。生活音ダダ洩れの安普請だから、普通より潜り抜けられる可能性は高いはず……!」
絶対に気のせいだ。
だけど、光太郎は聞こえちゃいけない声が聞こえているのか、狭い部屋の中で最大限助走のための距離をとる。
「5,610!」
止める間もなく光太郎が壁に向かって駆け出した。
「……っ! 壁にぶつかってない? 成功だ!」
続いて聞こえてきたのは光太郎の歓声。
「んなわけないでしょ」
光太郎が壁に激突する間一髪のところで服の首元を掴むことができた。
光太郎の顔は壁まで1cmくらいしかないところでギリギリ止まっている。
危なかった。運動音痴の光太郎とはいえ、あの勢いで壁にぶつかっていたら顔の骨が折れてもおかしくない。
「詩織、何で止めた」
「目的と手段がトチ狂ってるのよ」
掴んだままの光太郎の服の首元をグイっと引いて壁から引き離す。ぐえっと苦しそうな声が聞こえてきたけど、自業自得だ。その顔をグイっと覗き込む。すぐ目の前にある綺麗な瞳に少しだけドキリとした。
「女の人とお近づきになりたいなら、別に目の前の女を口説いたっていいじゃない」
はっと光太郎が息を呑む音が聞こえてきた。
わかってる。光太郎はそういう意識で私を見てないから、こんな風に気軽に部屋に呼んで好き勝手に振る舞えるのだろう。
どうしてこんなやつに惹かれてしまったんだろうと思う。アホなのは私の方だ。
それでも、どんなことにも一生懸命立ち向かうその姿は新鮮で、いつの間にか目で追いかけるようになっていた。
私たちの間に言葉が消える。全開の窓から聞こえてくるけたたましい蝉の声、それから光太郎の息遣いが世界の全てになる。
滴った汗が光太郎に吸い込まれていく。それが契機となったように、光太郎がゆっくりと口を開いた。
「オン、ナ?」
光太郎は初めて聞いた言葉を繰り返すみたいに、不思議そうな顔をしながら私を見た。
ぶちり、と頭の中で何かが切れる音がハッキリと聞こえる。
次の瞬間には無意識のうちに光太郎に足技をかけ、バランスを崩したところを壁に向かって叩きつける。
前言撤回。こいつは一度思いっきり壁にぶつけて考え方を改めた方がいい。
だけど、放り投げた感触が軽い。光太郎の体が壁にぶつかる音もしなかった。
そもそも、目の前に光太郎の姿がない。まさか。いや、そんなまさか。
「5,610回目、成功だっ!」
安普請の壁の向こうから、光太郎の歓声が聞こえてきた。
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