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とりあえず、出来るとこまで一人でやってみよう。親へのヘルプはいつでも出せる。だから先ずは一人で頑張ってみよう。
そう思ってオレはこのことを誰にも言わないことにした。
けれどそんな決意はそれから一週間と持たず、揺らいでくる。
というのも・・・。
気持ち悪い・・・。
ただこの一言だ。
会社にはとりあえず妊娠の報告はした。本当は安定期までは黙っていようと思っていたんだけど、悪阻がね、思ったより酷くてね、いつ休むか分からなくなったからだ。
それでも迷惑はかけたくないと、無理して会社に行ってるわけで、今日も意地で仕事をこなしたけれど、その気力も限界だ。
オレは定時で上がらせてもらったものの、その気持ち悪さに駅までも歩けず、公園のベンチに座り込んだ。
夏の日は長く、公園では子供たちがまだ遊んでいる。そんな楽しそうな声を聞きながら、オレは前のめりに背中を丸め、気持ち悪さを堪える。
しんどい・・・。
想像以上の悪阻の酷さに、気持ちが萎える。
駅までも歩けないのだ。このまま仕事を続けていけるのか。
出来れば産休に入るまではちゃんと働いて、みんなに迷惑がかからないようにしたい。それから引き継ぎもきちんとして、なんの心残りなく産休に入りたい。だけど今からこんなんじゃ・・・。
気持ちが萎えるとろくなことを考えない。
本当は悪阻はずっとある訳では無いし、もう少し頑張ればピークが過ぎ、少しずつ軽くなって治まるだろう。でも今があまりにも辛すぎて、この先全てに自信が無くなる。
はぁ・・・。
無意識に口から盛大なため息が出たその時、ふわっと甘い香りがした。その香りに心臓が大きく脈打つのと、耳元で声がするのは同時だった。
「なんで来ないの?」
「うわっ」
有り得ないくらい近くで声がして、オレは思わずその耳を押さえようとしたけれど、耳につく前にその手を掴まれる。それに驚いて振り向くと、びっくりするくらい近くに、帽子をかぶり、サングラスと黒マスクをした男の顔があった。
見るからに怪しいその男は、そんな格好をしているにもかかわらず、キラキラしたオーラが漏れてしまっている。
ほとんど見えないのに、美形な奴って分かるんだな。
振り向く前からその香りであの男だと分かっていたけれど、なんでここにいるのか分からず驚いたのだ。
「なぁ、なんですぐにうちに来ないんだよ。こんなにしんどそうなのに。もう分かってるんだろ?悪阻だって」
男は後ろから屈むようにして口をオレの耳元に寄せている。そんな男からオレは離れようと立ち上がった。
「あんたには関係ないだろ」
何でこの男がオレの妊娠を知っているのか気になったが、この男には関わらないと決めたのだ。だからオレはそう言って歩き出そうとした。けれど急に立ち上がったので頭がぐらりと揺れ、膝が崩れる。それを後ろからがっちりと抱きとめられた。
「ほら、無理しない。オレから離れてるから辛いんだよ」
そう言ってぎゅうっと抱きしめられる。
「・・・楽になっただろ?」
抱きしめられた腕の中で、オレはその男の体温と香りに包まれる。すると今まで胸に居座っていた気持ち悪さがすうっと治まった。そしてさらにその香りを胸いっぱいに吸い込むと、身体の力が抜けてくる。
「いいよ、このまま寝なよ。ちゃんと連れて帰ってあげるから」
男の胸に当たる耳から直接聞こえるその声に、オレの瞼は考える間もなく落ちてくる。そしてそのまま、オレは眠ってしまったらしい。
最近眠気が酷かった。
眠くて眠くて、歩きながら寝そうになったこともある。だけど仕事中に寝るわけにもいかず、オレは強いミントを噛んで頑張ってたんだけど、この男の香りはそんなオレの努力を簡単に削り取る。だからオレは、本当にすとんと寝てしまった。
目が覚めると、そこはあの男の部屋だった。広いベッドにオレだけが寝ている。
あの男は・・・?
姿は無いけど、まだそこは温かく香りも強く残っている。その香りを求めて無意識に布団にもぐり、胸いっぱいに吸い込む。すると心が落ち着いた。
そういえば、気持ち悪くない。
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