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あんなにずっと気持ち悪かったのに、今はなんともない。これって、あの男の香りのせいなのだろうか。悪阻が酷くて少し調べたことがあるけど、番と一緒にいると軽くなるって書いてあった。もしかしたらそれは番じゃなくても、子供の父親でも同じなのかも。
そんなことを思いながらオレはベッドを降りた。見ればあの男が着替えさせたのか、知らない寝間着を着ている。とても触り心地がいい、ピッタリサイズのそれに、この部屋を使っていた恋人のお古かと思ったけど、新品みたいだからオレのために用意してくれていたものかもしれない。
まあ、恋人の予備だったかもしれないけどね。
なんて思いながら寝室のドアを開けると、そこにいたのはあの男・・・じゃなくて・・・。
「誰?」
そこにいたのは背の高いアルファで、あの男とは正反対のメガネをかけた真面目風の男だった。
「ああ、起きましたか?私はAngieのマネージャーで上野と言います」
その男・・・上野はにこやかに自己紹介をしてくれたけど、いまAngieて言ったよね?!
「Angieはいまちょっと外せない仕事があって出かけましたが直ぐに戻るので、もう少し横になって休んでいてください」
話の内容よりも、またAngieと言った上野の言葉に、オレはショックを受け、そのまままた寝室へと戻った。
やっぱりあの男は、国民的有名人の『Angie』なのか?
今までなぜ全く知らなかったのかが不思議なくらい、Angieは超有名人でどこにでもその顔が出ている。それこそ老若男女が知る顔だろう。その有名人が本当にあの男・・・?
頭がパニック過ぎて何が何だか考えられない。
だったらどうして、そんな男がオレなんかと?しかもオレ、そんな超有名人の子供、妊娠しちゃってるんですけど・・・。
そのあまりのことに、頭は考えることを放棄する。
寝よ。
オレはまたベッドに潜り込んでそのまままた寝てしまった。
この眠気も悪阻らしい。
毎日毎日眠くて、仕事中何度も寝そうになって困っていたけど、今はそんな眠気とはまた違う感じだ。どちらかと言うとすごく安心して心地よくて、だから眠くなってしまう。
これもあの男の香りのせいかな。
そんなことを思いながら、オレはすっぽりと布団を頭から被り、あの男の香りに包まれた。
どれくらいそうしていたのか、布団の中にいたはずのオレはまたあの男の腕の中にいた。
しんと静まり返った空気に、いまが夜中なのが分かる。
すぐ近くから聞こえる規則正しい寝息の音に、オレはそっと視線を上げる。するとそこには同じ人間とは思えないくらい綺麗な顔があった。
まつ毛長い。
閉じた瞼から伸びるそのまつ毛は、まるでつけまつ毛のように長い。そして筋の通った鼻と、形の良い唇。その作り物のように恐ろしいほど整った顔に、オレは呟く。
「Angieなの?」
すると寝ていると思ったその男の唇の端が上がり、微笑みの形になる。
「杏樹」
「杏樹?」
「オレの名前」
名前?
Angieじゃないの?
そう思っていたら、その男・・・杏樹の瞼が上がった。すると現れる不思議な色の瞳。
ひまわりだ。
青みがかった灰色の瞳の中に、黄色いひまわりが咲いている。
「まだ眠い?いいよ、まだ寝てて」
その言葉に、オレの意識はまた眠りの底に沈んで行く。そして沈みながら思った。
杏樹って、顔に似合わず随分可愛い名前だな・・・。
だけどこの名前、前にも聞いたことがある気がする。
そう思いながら眠ったせいか、オレは夢を見た。
公園の隅で泣いている小さな子供。
その子はチビでガリでメガネの、クラスでも一人はいるような大人しそうな子だった。だけどその子は見た目に反し中学生で、行われたばかりの第二性診断でアルファと診断されたらしい。そしてその事で、クラスの子からいじめを受けていたのだ。
到底アルファとは思えないその容貌に、周りはやっかみ半分でその子をいじめた。
誰だってアルファになりたいのだ。でもその大半はベータ。なのにこんな、アルファには似つかわしくない奴がアルファなんて。
理不尽ないじめは、本人の自信も打ち砕いていく。すると萎縮して、さらにいじめられる。
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