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カーテンコール
鳴り止まない拍手が会場に満ちる。さして広くもない市民ホール。長年世話をしてくれているマネージャーは不服そうに唇を噛んでいたが、音響も規模も申し分ないとわたしは思う。
まだ物心もつかない頃からピアノに触れて、慢心の後にあなたに鼻を折られて。そんなあなたに追いつこうと躍起になって。弾き続けて弾き続けて、今のわたしが在る。
あなたのピアノは素晴らしかった。あなたの音に近づきたいと。触れたいと。心から願った。
ただ純粋に焦がれた訳ではない。いつの頃からか、わたしのなかに邪心が宿った。あなたは気づいていたに違いないのに、一度もそんな素振りを見せてはくれなかった。
踊るように跳ねる指先を、首筋を這う汗を、今でも鮮明に描くことが出来る。どんなに時が流れても、あなたが遺したあれやこれを忘れることなんて出来やしない。
それは邪な心を持ったことへの罰なのか。
禁を犯さなかったことへの褒美なのか。
緩く絶え間なくわたしを縛る。
鳴り止まぬカーテンコールがわたしを招く。
あなたの再来と称えられる演奏を皆が待っている。わたしが届ける、最後の五分を。
もう二度と、あなたの音を他人に聴かせることはない。この五分が終わったら、あなたが遺してくれたあの部屋で、わたしはわたしの為だけにあなたの音を奏でる。
春の花溢る庭に囲まれて。
夏には木漏れ日のなかで。
秋の落ち葉の音に乗せて。
冬。深い雪に閉ざされて。
ステージに歩み出ると、一層音を増したカーテンコールがわたしを包む。眩い光に目を細め、深く腰を折る。鳴り止まぬ音が、わたしがピアノの前に座るとぴたりと止んだ。
静寂のなか。
そっと指を落とす。
あなたの音。
あなたがわたしに与えたもの。
褪せることのない
掛けがえのない
わたしの総て。
ねえ、あなた。
あなたはもういないのに、わたしのなかには今でもあなたが溢れている。
弾むように軽やかな音に、僅かに苦しみが滲む。その痛みがわたしを高揚させる。音は狂おしいほど軽く弾み、小さなステージに満ちる。
優しくて狡いあなた。
総てをわたしに与え、ただの一筋も、わたしにくれなかったひと。
最後の一音がスポットライトに照らされる床に落ちた。
何拍かの静寂の後、割れんばかりの拍手が会場を包む。見渡せば、立ち上がって称えてくれている人もいる。そのなかには見知った顔もある。
深く深く頭を下げた。
あなたを悼み続ける日々は今日で終わりだ。
明日からは、ただ、あなたを想って生きてゆく。
時は流れ、失ったものは戻らない。
それでもなお求め続ける愚かさを、今では愛おしいと思う。
黄昏の光射し込む部屋のなか。
慈しむように音を紡ぐあなたを、
ただ、思い出す。
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