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あたしはいま、これまでの人生で最大の勇気をふり絞ろうとしているところだ。
昇降口の靴箱に隠れて視線を送る先には同じ高校の2年生、瑞樹カナタ先輩が立っている。うちの高校の陸上部の短距離走者だ。
みんなから注目されるような派手な活躍はないけれど、自分の走りに決して手を抜かない努力家な人だということを、あたしはよく知っている。……いつも、見ているから。
校庭を走る部員や高く飛ぶ部員など、陸上部には他にもたくさんメンバーがいるのに、あたしには先輩の姿だけが誰よりとびきり輝いて見える。
他の人たちだって懸命に部活に取り組んでいることも分かっている。なのに、それでもやっぱり瑞樹先輩の頑張りばかりがあたしの目に入ってきてしまう。
心が勝手に贔屓している。ーー惹かれているからだっていうことは、もうとっくに承知している。
この学校に入って初めて見た時にはもう鼓動は跳ねていた。抗えない引力に、あたしの心はつかまったままだ。
いつもなら部活に行っているはずの放課後のこの時間に瑞樹先輩が昇降口なんかにいるのには理由がある。
ゲリラ豪雨だ。
ざんざん、と大きな音を立てて、空からは大量の水が降ってきていた。バケツをひっくり返したような雨、という表現があるけれど、それどころかまるで滝を見ているかのようだ。昇降口から見える外は水流の激しい水の中の世界のよう。
放課後になってすぐに降り出した雨に、屋外で行われる部活は軒並み中止となった。傘を持っている子たちがさくさくと帰っていく中、鞄を覗き込んだ瑞樹先輩の動きは止まり、しばし固まり、そのままみんなに取り残されてしまったのだった。
たぶん、折りたたみ傘を忘れて来たのだろう。降り出した雨に慌てて教室を飛び出して帰ろうとしたところ、たまたまそんな様子を見かけてしまった。
瑞樹先輩は傘を持っていない。その事実に気づいたあたしは、周囲の傘立てに視線を走らせた。――軒並み、空っぽ。置き傘なんてどこにも無い。
そうこうしている間にも校内のほとんどの人は帰ってしまい、昇降口には瑞樹先輩と身を潜めたままの私だけが残っている状況となっていた。
あたしは自分の傘の柄を握りしめたまま、気づかれないよう靴箱の陰から瑞樹先輩の横顔をこっそり覗きこんだ。
もしかしなくても、きっとこれはチャンスだ。
「どうすっかなー……」
瑞樹先輩の呟きが聞こえる。心底から困り果ててる声だ。しかも、これで三回目の呟き。
あたしはその度に足を出そうとして、勇気が出なくて、もう一度足を出しかけて、でもできなくってつんのめって、を繰り返している。
――良かったらあたしの傘、一緒に入りませんか?
そんな簡単なひとことが出てこない。それどころか、彼の前に姿をあらわすこともできない意気地のなさだ。
あんなに困っているのだから、一緒に傘に入ることを提案しても不自然じゃないはず。
この雨の中、彼が濡れて帰ることにしてしまったら? それで風邪なんてひいてしまったら? そうしたら、あたしは絶対に後悔する。校庭で走る先輩の姿が見られなくなるのは、嫌だった。
純粋に心配する一方で、好きな人と相合傘がしたいというよこしまな願望が混ざっているなんてこと、きっと気づかれない。
そう、だいじょうぶ。
あたしは再度、勇気を奮いたたせた。
――行け、あたし。ただ傘を差しだすだけだ。
震える右足を、動かした。
どきどきと心臓が鳴って耳までその鼓動で塞がれて、雨が打ち付ける音も聞こえなくなってきた。
足音をざ、と立てて瑞樹先輩の前に姿をあらわすと同時に、声を発した。
「あの!」
その声にかぶさって、先輩が「あ」と空を見上げた。
「雨、やんだ」
……へっ?
あたしは勇ましい仁王立ちの姿で、瑞樹先輩が見上げる空に目を向けた。
ばっしゃばっしゃと降っていたはずの雨が、手品のように消え去っていた。あたしはぽかんとする。
……そう、ゲリラ豪雨はすぐ、やんでしまうのだ。
「や、やみましたねぇ」
傘をしっかと握りしめたまま、他に何も思いつかずにあたしはそう言った。
瑞樹先輩はそんなあたしの存在にいま初めて気づいたようで、「雨やむの、待ってたの?」と話しかけてくれた。
「もう俺しか残ってないと思ってた。……あれ、でも傘持ってるじゃん」
「あ、あう……」
そうですよ、持ってますよ、相合傘したくて声をかけたくてできなくて、こんな状況になっちゃってますよ。
先輩の指摘に顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。恥ずかしい。
「それにもしかして今、声かけてくれた? なにか用だった?」
あくまで屈託のない瑞樹先輩の笑顔に、なんだか悔しくなってくる。
懸命に振り絞った勇気をどこにやればいいのかわからない。爆発寸前の心臓のどきどきもそのままになっていて、この昂りを外に吐き出してしまわないととてももたない、と心がピンチを告げている。
あたしは自分至上最大の大きさに育った勇気を、混乱したまま瑞樹先輩に向けて振り下ろした。
「あ――あたしと一緒に帰りませんか!?」
ご丁寧に、先輩に捧げるように傘まで差し出していた。
恥ずかしさにかぁっとさらに顔に血がのぼる。
「あ、雨やんじゃってるし、傘いらないですよね、すみません。そ、それでも良かったら、一緒に……」
勇気を吐き出した心に、不安が入り込んで膨らんでいく。言葉尻が小さくなって震えてしまっているのが、情けない。
すると瑞樹先輩のくすっという笑い声が耳に届いた。嫌な感じのしない、優しくてささやかな笑い声。
「ごめん、実は気づいてた。ずっといるなーって思いながら待ってたんだ」
「えっ」
「あのさ、もしかしていつも、部活してるの見てくれてない? 俺の応援してくれてるんだったら良いなって、勝手に期待してた。――いつも励まされてるんだ」
瑞樹先輩があたしの手から傘を受け取る。
「もしかしたら今日こそは話しかけてくれるのかなって、待ってた。ぴょこぴょこ小動物みたいに動いてて面白かった。――違うな、可愛かった」
言ってから、先輩ははたと気づいた顔を見せる。
「あらためて考えてみたら俺、なんか意地悪だな。君から話しかけてくれるの待つんじゃなくて、俺から話しかければ良かったんだよな」
言ってから一歩を踏み出し、昇降口の外に向けて傘をぽんと差した。そしてあたしに隣に来るように視線で促してくる。
「……あの、雨、やんでますけど」
戸惑いながら口にした言葉は瑞樹先輩の爽やかな笑顔で封じられてしまった。
「うん、でも、ただ隣を歩くだけより、同じ傘の中のほうが近くでしゃべれるような気がして」
だからここに入ってよ、と告げる目に吸い寄せられて、いつの間にか瑞樹先輩と同じ傘の中、同じ空間の中にいた。
「人様の傘であれだけど、俺からも言わせてくれるかな」
瑞樹先輩が身をかがめ、あたしの顔を覗き込んだ。
「雨が上がったことに気づかない振りして、相合傘して一緒に帰らない?」
先輩のその言葉に、あたしはこくこくと頷くことしかできなかった。
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