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ヒラメと太陽
離婚した。五年間連れ添った妻との関係が終わった。それは、三歳の娘との別れも意味する。かつての最愛の妻はもういない。五年も連れ添った目の前の女は何なのか、もう分からないし、分かりたくもなかった。人生終わった、そう思っていた……。
娘が生まれた時は嬉しかった。生まれたての我が子の小さな手は、辛うじて感じ取れるくらいの握力で、しかし確実に、父親である自分の親指の先を手のひら一杯に握りしめた。妻への感謝の気持ちが溢れた。
出産という命がけの行為を汗だくで乗り越え、我が子を抱きかかえ見つめるその表情は、優しくも強かな母の顔になっていた。なのに、なぜ……。
娘の成長はあっという間だった。寝返りを打ち、ハイハイをし、言葉を発した。言葉を発したかと思ったら、歩き、走った。走ったかと思ったら、不意に抱っこを要求してくる。
時折、妙に大人びた言葉を発したと思ったら、それは自分の口癖だったと気付かされ、思わず笑みがこぼれる……。そんな娘には、もう会えない……。
緑色の薄っぺらい用紙に押印し、自室で泣いた。声を出して泣いたのは何年ぶりだっただろうか。目の前の幸せそうな家族写真が滲んで歪み、そしてぐちゃぐちゃになった。涙は子どもの頃に味わったそれよりも苦かった。
すっかり涸れ果てた頃には、大人の男はこんな声で泣くんだなと、空っぽの頭でぼんやりと何もない宙を眺めていた。最後には、ひとりで住むには馬鹿みたいに広い四LDKの一戸建てと、重くのしかかる住宅ローンだけが残った。
酒量が増えた。何もかもが面倒になった。スカスカになったリビングルームのテレビの前に、あらゆる生活必需品が乱雑に集約されてゆく。
コロナ禍は救いだった。在宅ワークが解禁になったおかげで、腫れぼったいまぶたも、そり残した髭も、酒臭い息も、だれからも悟られる事はない。まるで止まったように時は流れた。
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