14人が本棚に入れています
本棚に追加
無心で眺める竿先が小刻みに跳ねた。当たりだ。慌ててはいけない。昔からヒラメ四十と言う。ヒラメの当たりがあったら、慌てずに四十秒待ってから合わせるという意味だ。とは言え、状況次第で二十秒くらいで合わせる事もあるが……。
いずれにしても、ヒラメの捕食能力がそれほど高くないのは事実だ。一度餌のイワシに食らいつくと、その餌食の最期の抗いに格闘するのだ。その鋭い歯でゆっくりと少しずつ、しかし確実に相手を丸呑みにする。それを待ってハリを口に引っかけるのだ。
四十秒は経たなかった。二十五秒くらいだったと思う。小刻みに振れる竿先が僅かに海面に引き込まれたその瞬間、竿を大きく鋭く持ち上げた。大きな抵抗と重さを感じた。
竿先から伸びる糸と繋がった四十メートル下のハリがヒラメの鋭い口を突いたのだ。激しく暴れる竿を制しながらリールを巻き、四十メートルの糸が次第に手元に収まってゆく。
ゆらゆらと大きな座布団のようなヒラメが仄暗い海中から姿を現し、次の瞬間、船頭さんが大きな網でそれを掬って船内に放り込む。
七十センチを超えるヒラメだった。旬ではないので身が薄く、それほど脂も乗っていない。それでも良かった。嬉しい釣果だ。クーラーボックスに入りきらなかったので、可食部のない尾ビレを切り落として押し込んだ。
あれ、おかしい、と思った。今「嬉しい」と感じた。そんな感情は久しぶりで戸惑った。しばらくの間、予想外の感情に呆然としながら、海面の煌めきの向こう側にある、奈落のような海中を眺めていた。
最初のコメントを投稿しよう!