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 小さい頃によく読んでいた子供向け教育ブックの中に、誘拐された子猫の話があった。  それがどんな結末だったのか覚えていないけれど、かわいらしい絵本形式になっていて夢中で何回も読んだ。とても救いようのない哀しい話で、あたしは毎回読み終えては大泣きをした。こんな話だ。  トラの子猫が歩いていた。そこに三角帽子を被って髭を生やした怪しい犬が現れて「楽しい所へ連れて行ってあげる」と車のうしろに乗せられてしまう。子猫は両手に大きなペロペロキャンディーを貰って、まるで自分が世界で一番の幸せ者のように誇らしげに両方の窓から両手を出してゴキゲンだ。運転している犬も陽気なドライバーよろしく鼻歌まじり。次のシーンでは、体をぐるぐる巻きにされた子猫が悪党の顔をした犬の横で涙を飛ばしてわんわん泣いている。  たぶん知らない人について行ってはダメ、ということを教育するための絵本物語だったのだと思うが、しばらくあたしは大泣きした。ねえねえ、あの猫ちゃんどうなったの? なんでついて行ったの? とさんざん姉を困らせた。あんなにニコニコ幸せにキャンディーを振っていた子猫が、どうしてこんな悲しい思いをしなきゃいけないのか。おかあさんネコはどうしたのか。あふれ出る感情が止まらなくて、全部涙になった。  そんなあたしに姉はお年玉のお金をはたいて、近くのショッピングセンターの玩具売り場でトラ柄の猫のぬいぐるみを買ってくれた。そこにはお洒落な雑貨屋もあって作り物のキャンディーも売っていたので、ふたつ揃えてくれた。  あたしは嬉しくてぬいぐるみの両手に大きなキャンディーを持たせてあげて、布団の横にいつも置いて気が済むまで撫でた。どこにも行っちゃあだめだからね、と声をかけると隣の布団でナツキは「うん」と答えていた。  いつもツンとしてるけど、ハルちゃん本当に優しいね。  今日もずっと雨が降っている。後部座席の右側で、いつものようにあたしは窓の外の海を眺める。あたしはお姉ちゃんと違う。わがままだし、嫌いなことはしたくないし、下品だし。お姉ちゃんとは違うんだ。  ハルちゃんが本当はそうやっているけど、裏では優しい子なのは知ってる。姉ちゃん知ってるよ。去年の高1の夏休みにスーパー魚信で働いたアルバイト代、東北で起きた震災のボランティアに行けないからって全部募金したんだよね。偉いよね。私にはできないよ。  嘘だよ。本当は募金なんてしていない。いざ銀行でリアルなお金を見たら、もったいなって思った。半分くらいゲームソフトになって残りは忘れた。結構早く無くなった。そんな嘘はだめだからってナツキは言うけれど、ごまかしじゃなくて事実を言っただけ。ゲームばかりしてたらダメって、あたしの前ではゲームのゲの字も嫌っていたナツキが、本当はあたしがいない時にひそかにパズルゲームに熱中していた。だからそのソフトの続編を買ったのだ。  細く開けた窓の端から、雪女の咆哮がするようだ。前髪を揺らす。目の端に遠く、道が分かれるいつもの信号が見えてくる。   生地が擦れるまで可愛がったぬいぐるみはトーにゃんと名付けた。トーにゃんは中3になるまでずっとかわいがったが、ある時ふと気が付いたんだ。トーにゃんにはお母さんなんていなかったんだって。だから本当は怖くて泣いていたけど悲しくなんてなかったんだって。  お姉ちゃんが3歳で、あたしが生まれたばかりの時に母は死んだ。でもそう聞いていただけで、本当はあたしはお母さんの子供ではなかったのだと思う。ナツキは母に似て優しくて笑顔がかわいくてハルを大事にしてくれる子だって、お父も浜のおばちゃんも宝町のおじさんもみんなそう言う。だからナツキは間違いなくお母さんの子供だけど、あたしは違うのだと思った。お母さんのことをあたしは何もかも知らないから。  そう言うとナツキはいつも悲しい顔であたしの頭をなでる。きっとあたしをトーにゃんみたいに思ってるんだと思う。  あたしは背中越しに、トーにゃんは汚れたので捨てたとナツキに教えてあげた。そんな嘘はついちゃダメだよってナツキは笑ったけど、本当だって、可愛がりすぎて黒くなってボロボロだったから、中3の夏に学校行く途中の東洋橋前のローソンでゴミ箱に捨てたの。10年くらい可愛がったからコスパは良かったと思うし。  ハルちゃんはそうやっていつも自分を悪い方へ話すの。  タクシーは分岐の交差点に近づいていた。  ハルちゃん、嘘ついたらだめだから。姉ちゃんは全部知ってるよ。そうやって突っ張って向こうを向いてばかりだけどさ、本当はハルちゃんのベッドの布団に今でもトーにゃんが隠れてるの分かってるよ。だからこっち向いて。 「この先まっすぐでいいんだよね」  今日の運転手は勝手を知る人だ。乾いた声でそう言うと黙って車は信号を直進した。
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