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タクシーではいつも会話をしない。その代わりに小さい音量でAMラジオを流している。今日はパーソナリティが黒部渓谷のトロッコ列車の話題をしていた。
そういえば、昔こんな話していたよね、と不意にナツキが面白そうに話しかけてきた。ナツキがまだ中学生だった頃、何気ない話題からトロッコの話になった。それを思い出したらしい。
一本の線路をトロッコ列車が下っている。このまま走り続けると線路の先には5人の作業員がいて全員ひき殺されてしまう。作業員たちの手前には左に曲がっていく支線があって、手動のポイント切り替え装置の脇にあなたが立っている。ポイントを切り替えればトロッコは左に曲がって5人の作業員は助かるけど、その代わりに左の支線には1人の作業員が立っている。あなたはポイントを切り替えることもそのまま放置することもできる。5人の作業員を救うために、あなたはポイントを切り替えるだろうか?
トロッコ問題って言うんだっけ、とナツキは言った。あたしは黙って首を傾げた。ハルちゃんだったらどうする? という問いに、あたしは面倒臭そうに答える。何もしない。見なかったことにする。
どうして? ナツキの問いは多分非難をしたのでも不服だったわけでもないようだが、あたしは困った。どうしてと言われても、そういう運命じゃん。それをあたしが左右できるわけない。じゃあお姉ちゃんはどうするのか、と少し強く言い返す。ナツキはじっとあたしを見つめて言った。私なら、ポイントを切り替える。
でもそうしたら1人の作業員が死んでしまう。その人はお姉ちゃんが殺すんだよ、とムキになった。ナツキはにこりと笑って、だってそうだとしても行動を起こすべきじゃないかな、何もしないより行動した方が何か奇跡が起こる可能性がある。もしかしたらトロッコが何かの拍子で止まるかもしれないから。
嘘だそんなの。もし5人が死んでも、それはあたしが悪いんじゃない。
「今日もあいにく雨だね。梅雨に入ったのかね」
無口な運転手が珍しく何か言っていた。
窓の隙間からの咆哮があたしを包んで、あたしは怖くて目を閉じた。真っ暗になった頭の中に、あのおぞましい臭いが充満して狂いそうになる。砂と金属がこすれて焼かれたあの臭い。発作が起こってしまうと思ったあたしから、車内に満ち満ちたセピア色の風が色を奪う。
ナツキが死んでしまう。あたしのせいだ。あたしのせいだ。
「運転手さん、あの信号をまっすぐです」
あわてて言うのに運転手はのんびりと「分かってますよ」と返す。
「お願いです。まっすぐです」
「大丈夫ですよ」
背中越しの笑い声が遠くへ消えた。
*
「おお、今日は珍しく海がきれいだなあ」
運転席でお父が言った。夏の名残を映すような鮮やかな夕景が海に広がっている。あたしは興奮してずっと家から海ばかり見ていた。
「私も見たい」と言って肩に両手を乗せてくるナツキがあたしの左頬で「すごーい綺麗」と声を上げた。
車は父方のおばあちゃんの家に向かっていた。お彼岸のお参りだった。あたしは海がよく見える車の右側後部座席を独り占めしていて、それはまだ小学生で子供である自分の特権だと思っていた。ほらお姉ちゃんにも譲ってあげなさいというお父の声を無視してご満悦だった。
道が分かれる分岐の信号まで来た。おばあちゃん家はいつもここで左に曲がる。あたしは嫌だった。もっと海が見たいと駄々をこねた。仕方ないなあ、といつものようにナツキがほほ笑んで、お父はハルには敵わんなあと言いながら青信号で直進をした。
対向車の大型トラックが突っ込んできたのはそれからすぐだった。お父が叫んだと思ったら正面いっぱいにあずき色の泥にまみれたトラックの車体が迫っていた。多分お父は必死に逃げようとハンドルを右に切ったんだと思う。体が振られて左側に座るナツキの柔らかい上半身をあたしは押していた。
車の左側後部をトラックが潰した。お父とあたしは軽い打撲とかすり傷で済んだけど、ナツキの身体は潰れたシートの向こうに消えていた。
お父に抱かれて震えながらナツキの救助を見守っているうちに雨が降り始めた。救急隊によって助け出されたナツキの身体は中央病院に運ばれた。重度の意識障害で昏睡状態が続いた。いつ意識が戻るか分からないと言われたナツキは植物状態のまま5年の月日が経った。その日以来、あたしの中で降り出した雨は止むことはない。
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