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ジャンジャンの焼きそばが食べたい。
扉を閉めてくれた運転手が前の座席にせわしなく乗り込んだ時、あたしはそう思った。
お腹が空いているのだろうか、とも思ったが別にそういうわけでもなかった。ただ陽気で無頓着そうな運転手の汗ばんだ赤ら顔が、コマーシャルに出ている地元コメディアンに似ていたからかもしれない。ふっと現れた鼻腔をくすぐる微かな匂い。ただの幻覚なのだろうけど、それがたまたまジャンジャンの焼きそばであったというだけだ。
「行先は、いいんだよね」
後部座席右側に座ったあたしの真ん前で、色褪せた制帽からごま塩のうなじを見せる運転手が、田舎臭いイントネーションでそう言った。いつもの慣れた運転手ではないようで、いちいち面倒くさい。
黙っていると、了解と受け取ったようで車は走りだす。あたしは右側に流れていく車窓を目で追いながら、頭の中でジャンジャンの間の抜けたラッパ隊のようなCMソングを歌った。きっと誰もちゃんとした歌詞を知らない適当なCMソング。そもそも『ジャンジャンの焼きそば』って呼んでいるけどちゃんとした商品名は知らない。CMソングの最後に『ジャンジャン』って楽団が演奏を終えるのが面白くてクラスのみんなでそう呼んでいるだけ。安っぽいソースの匂いと、揚げた麺の独特のチープな匂い。あたしはそれが大好きでずっとずっと昔から食べていた記憶がある。でもウチではあたししか食べない。姉のナツキは悲しそうに眉をぐっと下げてあたしに言う。もっとおいしいやきそばがあるのにって。
ハルちゃんまたどうでもいい歌うたって。と呆れたようなナツキの声が左側の座席から聞こえる。あたしは顔も向けずに車窓を流れていくガードレールの継ぎ目に合わせて、頭でぐるぐる流れる歌のリズムをとる。
ジャンジャンの焼きそばには栄養もそんなにないし、作ってくれる人の温もりもなくて、ただ人工的なソースがおいしそうなだけ。でもハルちゃんとても好きなんだよね。とあの時みたいにナツキは続けた。
姉は小学5年生くらいの頃から家庭の台所を仕切っていて、あたしとお父さんのために青梗菜とか人参とかきくらげとかたくさん野菜が入った手づくりのあんかけ焼きそばを作る。湯気が立って本当はとても美味しいのだろうソレをあたしは食べない。お母さんからお父さんへ、そして姉のナツキへと伝わったウチの自慢のレシピのようで、思い出の味なのだという。そういうのが嫌で、あたしはそっぽを向いてジャンジャンにお湯を注ぐ。
いつもハルちゃんそうなんだから、と怒り顔のくせに無理やり食べさせない。お姉ちゃんにとってはお母さんの味。でもあたしが生まれてすぐに死んでしまった母をあたしは知らない。そんな味知らない。
けどあとで分かったんだ。一度だけあたしは見たのだ。あんなにあたしに言っていたナツキが、たまたま早く帰ってきた土曜日の台所であたしのジャンジャンをこっそり美味しそうに食べていた。目が合って、ナツキは顔を真っ赤にして首を振った。あたしは見なかったことにして、でも内心言い得ない充足感に満たされていた。
タクシーはやがて海岸沿いの県道に出る。
柵で囲われた防風林が続いたのちに、鈍色の海原が広がる。白波を立てる海は、遠く霞む鼠色の雲との境界で溶けている。セピア色の風が音をたててこちらに向かってくる。
そんな景色があたしは大好きで、飽きることなく眺めていられる。ウィンドウを少しだけ下げると、景色に溶けていた風は思いのほか強くて、雪女が口元から吹き付けるみたいな音をして車内のあたしの熱を心地よく冷ましてくれるのだ。
ハルちゃんちょっと寒いね。姉の声を無視してあたしは頬杖をついた。姉の優しさに満ちたような、まるで保育園でいつも構ってくれたオオバ先生みたいな温かい感じと違って、あたしは性格がひねくれている。姉の夏姫という名前は姉のためにあるような名前だと思った。そして自分はなぜ春香なんて名前なのか全然分からない。春は好きじゃない。今にも雪が降りそうな、灰色の激しい海原、どこまで行っても暗く白く溶けていく冬の空。そして波の上を雨が降る。まるで寂寥感に浸った自分にやさしくベールをかけてくれるような細い雨が、いつまでも降っているのをただずっと眺めていたい。
そんなわがまま言わないの、と姉は笑ってあたしの左足に手を置く。
ほらそこの信号で左に曲がるとね、そろそろチューリップ畑が賑やかに咲き始めたかもしれないよ。ハルちゃん、綺麗だよ。行ってみない?
あたしは頬杖をついたまま、車窓を流れる海原に目を奪われたままだ。国道はこの先の信号で分岐をして、左に曲がれば松林を抜けて内陸に向かう支道へ、まっすぐ行けば海岸線に沿って走る本道へと別れる。病院に行くには左に曲がった方が早い。でもあたしはいつも同じように答える。
「お客さん、中央病院だったらここ左だけど」
車は分岐の赤信号を見て減速している。
「まっすぐ行ってください」
「えっと、遠回りだけどいい?」
いつもそう言っているのに、この運転手も本当は分かっているくせに、と思いながらあたしは右側に広がる車窓から目を離さない。しょうがないな、と優しく笑うナツキの声がする。
「えっと、真っすぐねっと」
わざとらしくそう言って運転手は信号を直進した。
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