3、ある夏の日のこと

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3、ある夏の日のこと

 ―――2029年夏  美術準備室の扉が音を立てて開かれる。  半袖の制服姿をした沢城奈月(さわしろなつき)がやってきたようだ。  俺はまた、騒がしくなると覚悟をした。 「守代(もりしろ)先生、また引きこもりになってませんか?  ダメですよ、一緒に外に出掛けましょう?  あたしは海でも山でもいいです、そうですね……あたしはカラオケでもいいですよ。  ドライブにもまたマリーちゃんと一緒に連れて行ってくださいよ」    突然、美術準備室に入って来たと思えばいきなり抱きついてきて、ヘビのように纏わりついてくる奈月。  俺はいつもの事かと動ずることなくパレットに乗せた筆を持ち、気にすることなく続けてキャンバスに筆を走らせた。  一学期期末試験期間も終わり解放感に包まれている生徒に混じって、奈月はここにやって来たのだろう。  奈月やアンナマリーも含め、学生達は試験勉強に追われ部活からも遠ざかっていた。もちろん、人類の天敵であるゴーストを退治することからも。  俺はその間、試験監督などの避けられない職務を除いてほとんどの時間をキャンバスに向かっていた。  前日、強いインスピレーションを得た俺は新しい作品の制作に取り掛かり始めると食事や睡眠もほどほどに、集中してキャンバスに向かう。  俺に対する求愛行動の止まらない奈月からは不規則な生活が続くと小言が止まらないのだが、俺はあまり気にせず作品の完成まで集中して取り掛かるようにしている。  日が空いたり、時間が空いたりするだけで膨らむ虚無感から逃げるように、無心でキャンバスに向かい続ける。  実生活を犠牲にして芸術活動に没頭するというのは、無駄な時間を費やしているという不安とも戦わねばならない。だから苦しくもあり、楽しくもあるのだと思う。  何物にも縛られることなく没頭する時間が俺は何よりも尊いと思い、何よりも自分の心の奥底にあるものと向き合っていると実感できるのだった。 「先生は本当に集中が途切れないですね。キャンバスに向かってるときは感覚器官が麻痺してるんですか? 不思議ですね……」  奈月は無反応な俺に飽きる様子もなく、肩を揉んで見たり、頬をつねってみたり、おでこに手を置いて体温を測ってみたり自由に過ごしている。 「よく飽きないな……。完成するまでこのままだぞ」    一方的に干渉を続けてくる奈月に俺は小さく呟いた。完成には程遠いが、離れようとしない奈月のために言ってやらねばならないことだった。  しかし、俺の忠告にもかかわらず奈月は弾けるような笑顔を浮かべた。 「やっと声を聴けました。ちゃんと生きてたんですねー。  あたしは先生の横にいられるだけで幸せですから。  キャンバスに真っすぐ向かってる真剣な顔をした先生があたしは好きです。  どんどん伸びてくる髭さんや汚れていく服を見るのも、嫌いじゃないです。  それに……先生の描く絵画だって、他では見れない歪んだ美しさがあってあたしは好きですよ」    シンプルに”歪んだ美しさ”と俺の絵画を表現する奈月。  象徴主義の画家に強い影響を受けた、おどろおどろしい人に見せるために作る絵画とは到底思えない歪んだ世界観を、奈月はどうしてか気味悪がることなくずっと見続けていられるようだ。    俺が奈月を根本的に拒絶しない理由は、俺の描こうとする絵を否定しないからかもしれないと常々思うところだった。   「あたしがスフィンクスになりますから、もう少し待っていてくださいね」 「俺はオイディプスになった覚えはない」 「でも、モローに影響された絵画を描いている。一緒でしょ?」 「一緒なわけあるか」  奈月は美術部員ではある、アンナマリーも同様に。  だが、それは元々美術に興味があったからというわけではない。  別の要因によるものだ。  しかし、美術部部員となり、美術部顧問である俺と一緒にいる中で様々な画家の絵画を知ることになった。  俺がよく知る、ギュスターヴ・モローの描く絵画も。
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