邂逅

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十五時過ぎから降り出した雨は、ものの数分で本格的に音を立て始め、あっという間に東京の街を薄暗く湿っぽい空気で包み込んだ。 夏の雨ほど嫌なものはない。 首藤杏里は雨を避けて駆け込んだ軒先で、べたつく肌に嫌悪感を抱きながら、さらにひどくなる雨に目を遣りため息をついた。 ここ二週間ほど、ついてないことだらけだ。 先週はこの夏場に冷蔵庫が壊れて予想外の出費が嵩んだし、ここ数日は営業先のトラブルで徹夜続き。その後始末で出かけた今日はこの雨だ。予報では晴れだったのに、まったくついてない。 三十歳を迎え、新卒で入社したイベント会社でも順調にキャリアを積んだ。 ゆるくパーマをかけた明るめの茶色の髪。ハイブランドの七センチヒール。三週に一度は必ずしも変えるネイル。ばっちりめのアイライン。昇給時にちょっと背伸びして仕立てたパンツスーツは杏里の武器だ。 派手めな外見ゆえに周りからはコソコソと言われることもあったけれど、そんなの杏里には屁でもなかった。強くて、なににも動じない、凛とした女になりたかったのだ。 マネジメントにも携わるようになり、優しい恋人もいて、全て順調。完璧に生きてきたはずだったのに。 杏里は俯き、脱力して壁に背を預けた。 気合を入れて、朝しっかりと時間をかけて巻いてきたロングヘアはへたっているし、斜めに分けてふわっと立ち上げてきたはずの前髪も額に張り付いてぼろぼろだ。今の杏里をよく表している。 この不運続きの毎日の、原因はわかってる。 優しくて、完璧な五歳年上の恋人。 海外勤務から戻ってきたばかりの彼は周りとは違う洗練されて自信に溢れた雰囲気で社内中の女性を魅了した。 そんな彼が私を選んだ。 その事実はひたすらに私の自尊心を充してくれた。 だけど… 彼は結婚していたのだ。 しかも社内の、同期の女性と。 知らなかったとはいえ一生の不覚。 そもそも彼が、社内恋愛は禁止ではないにもかかわらず、関係は秘密にしようと言っていた時点で気付くべきだったのだ。 彼は社内の人気を集めていたし、私に影響があるのを心配したのだろう、などと都合の良いように解釈して全く疑うことなんてなかった。 認めたくない。 認めたくないけれど、私は浮かれていたのだ。 二週間前、私の家で二人誕生日を祝っていたとき、唐突に彼の奥さんが訪れ、全てが明るみになった。 『あなたは優秀だと聞いてます。どうせあなたも知らなかったんでしょ? こんな男に遊ばれて可哀想。男を見る目を養うことね』 同情の笑みは私の自尊心を砕くのに十分だった。それ以来、ついてないことだらけなのだって仕方のないことだ。こんな女、幸運だって避けて通るだろう。 「うわぁ、ひどい雨ですね」 突如横から聞こえた声に、杏里は肩を震わせた。見ると、背をつけていた壁の脇の小窓から、黒髪の女性が顔を出していた。 ロングヘアをゆるく束ね、まっすぐな前髪は眉にかかるかかからないかくらい。大きな二重の目、光を放つ黒い瞳にぷっくりとした唇がかわいらしく、おっとりとした彼女の声と合っていた。杏里と同い年くらいだろうか。 吸い込まれるように見つめてしまっていたら、杏里の視線に気づいたのか、彼女が瞳が杏里を捉え、微笑んだ。なぜか少し心臓が波立った。 「よければ少し休んで行かれます? 来週オープンの予定なのでまだ荷物が残ってるんですけど」 彼女が少し身体を開き、空いた隙間から中を覗くと、カウンターのようなものが見える。カフェだろうか。 「カフェ…ですか?」 「はい! といっても、お紅茶だけなんですけど」 朗らかな声を残し、彼女は窓から顔を引っ込めると、隣にある扉を開けた。 「どうぞ。タオルもお貸ししますから」 どうせ今日は帰社するだけの予定だった。少し早く上がったところでなんら問題はないだろう。 普段であれば道草なんか食わずに速攻帰社してパソコンに向かう。休んでいる暇なんかないのだ。だけど、そうするには、今の杏里は弱りすぎていた。 「じゃあ、お言葉に甘えて」 杏里はゆっくりと、扉を抜けていった。 彼女が「開店準備中だ」と言う通り、まだそこかしこに段ボールが置かれていた。 6席ほどのカウンターに、4人掛けのテーブル席が2つ。こじんまりとした店内だ。 テーブルや椅子、カウンター、床など大物家具は木目調で、コンクリート打ちっぱなしの壁にダウンライトがおしゃれさを増している。 鉢植えの観葉植物に加え、天井からは所々にグリーンが吊るされ、どこか異国の庭園に紛れ込んだような雰囲気もあった。 杏里は促されるままカウンターに腰を下ろし、先程彼女から受け取ったタオルで髪を拭いた。 「自己紹介をしていませんでしたね。私、網島花といいます。来週から、ここで紅茶専門店を始める予定です。…といっても、私の当番は毎週土曜日だけなんですけれど」 「当番…土曜だけ?」 「はい。普段は会社員をしていて。ここは、何人かで資金を出し合って借りたんです。それで、毎日違う子が、それぞれやりたいお店をやるっていうのが、今のところの方針で」 花は説明しながら段ボールをあさり、「あった!」と声を弾ませる。 「これ、よければお飲みになりませんか? 開店に合わせて作った、この店初の、オリジナルブレンドなんです」 可愛らしいボタニカル柄の缶を手にキラキラと目を輝かせる彼女の圧に押され、杏里は頷いた。普段はあまり紅茶を飲むことはないのだけれど、嫌いなわけじゃない。 「よかった! じゃぁお湯を沸かしますから、ちょっとお待ちくださいね。ホットとアイスはどちらにしますか? 「あ、じゃぁホットで」 「わかりました! えっと…」 「あ、首藤です。首藤杏里」 「杏里さん! 素敵なお名前ですね」 彼女が紅茶を淹れる間、杏里はカウンターに頬杖をつき、その一挙手一投足を見守っていた。紅茶をいれる所作が美しかったのはもちろんのこと、その表情から、ほんとうに紅茶が好きなことが伝わってきて、果たして自分にはこんなに無邪気に笑顔を向けられるものがあっただろうかと、羨ましさすら覚えた。 「杏里さん、どうぞ」 「ありがとうございます」 彼女が差し出した紅茶には、黄色い花びらが舞っていた。 「きれい」 思わず呟くと、花は嬉しそうに目を輝かせ手を合わせた。 「よかった! マリーゴールドです。オーソドックスなダージリンをベースに、シナモンとカモミールをませてるんです」 「美味しいです」 疲れた身体に染み込んで、身体の芯から溶かされていくようだった。 ひと口飲んで、思わずほうっとため息をこぼした杏里を見ながら、花が口元を緩ませる。 「…なんですか?」 なにか変なことをしてしまったかと、杏里が眉を顰めて尋ねると、花は慌てたように顔の前で手を振った。 「あっすみません! いや、その、この瞬間が1番好きだなぁって、改めて実感しちゃって」 「この瞬間?」 「はい、こうやって、私の淹れた紅茶を飲んで、心をほぐしてくださってるのがわかる瞬間。杏里さん、なんだかお疲れに見えたから」 会って数分の相手に見透かされるくらい疲れが表に出ていたのか、と思うと恥ずかしさが湧いてきて、杏里は誤魔化すようにもうひと口紅茶を口に運んだ。 「ここはオフィス街からは少し外れてますけど、そのぶん日常からも少しは離れられるでしょう? 世の中嫌なことだらけですけど、ここにいる間は、全部忘れて、しがらみもなんも全部脱いで…自分に帰れる場所になるといいなって。そういう時間って、意外と意識しないと取れないでしょう?」 全部忘れてーー。 その時杏里の脳裏によぎったのは、彼のことだった。 今の杏里がどれだけ頭で否定しようとも、杏里は彼に夢中だった。それを認めてしまったら、自分の価値が下がるような気がして、遊ばれたことにも気づかない、哀れな女に成り下がりたくなくて、必死で記憶を捻じ曲げようとしていた。 自分は彼のことなんて本気じゃなかった。遊びだった。だから傷つくことなんてない。 だけど本当はわかっていた。自分の感情を真正面から認めることこそが、杏里がほんとうに前に進むために必要なのだと。 黙り込んでしまった杏里に、花が柔らかな声をかける。 「私は片付けをしてますから、いつまででもいてください。…せめてその涙が止まるまで」 いつのまにか、杏里の目からは大粒の涙がこぼれていた。それを拭うこともなく、なすがままに紅茶を口に運び続けていくばくか。 杏里は最後のひと口を飲み切ると、立ち上がった。 「ごちそうさまでした。また…来ます」 花は片付けの手を止めて、杏里を見て微笑んだ。 「はい、是非! カフェ•フルールはいつでもここで、お待ちしていますから」 気づけば雨は上がっていた。 終
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