泣き虫マジシャンの恋

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 俺は廊下を足早に進んだ。職員室とは逆の方向に。階段を上がり、屋上の手前の踊り場まで来ると俺は窓の下にしゃがみこむ。  十分後、俺は立ち上がって、窓から外をのぞいた。  いつの間にか雨は上がっていて、雲間から陽の光が差し込んでいる。軒先からぽたりぽたりと雫が一定のリズムで落ちていた。少し強い風が暗い色の雲を東へ東へと押し流している。地面の水たまりに、半分青い空が映り込んでいた。  やがて見知った二人の背中が、並んで校門へ向かっているのが見えた。一人は勇一、一人は紗菜。二人は校門を出ると、左に曲がる。すずいし屋の方角だ。  俺は「ああ……」と思わず声に出して、その場にずるずるとしゃがみこむ。  楽しそうに話しているのが二人の背中からもわかった。話題が俺のさっきのマジックの話じゃないといい。今日は散々な出来で、勇一に見破られるんじゃないかと冷や冷やしていた。緊張すると手元が狂うなんて、世界一のマジシャンにはまだほど遠い。と言うより、せっかく二人にしてやったんだから、俺の話なんて絶対にするなよ。 「広海は魔法使いみたいだね」  小さい頃からマジックを見せると、紗菜はそう言っていつも驚いていた。でもその後、紗菜が笑顔を向けるのはいつも隣りにいる勇一だった。  少年野球の試合で打席に立つ勇一に、紗菜は誰よりも熱心に声援を送っていた。中学でも高校でもそうだ。  勇一は勇一で、演劇部の本番前に紗菜によく「頑張って」と笑顔で声をかけていた。そのときの紗菜ははにかんだように勇一に微笑み返していたし、勇一も紗菜を優しく見つめていた。その場に俺がいなければ、勇一は紗菜の手を握るくらいはしたかもしれない。  紗菜が勇一に向ける笑顔は、俺や他の友達に向ける笑顔といつも少し違う。そのことには小学生の頃から気づいていた。  なんで両思いなのにさっさと付き合わないんだ、あの二人は。おかげで俺はずっと叶うはずのない紗菜への気持ちを抱き続けていたじゃないか。  それで俺は今日、勇一と紗菜を二人きりにさせた。新作マジックでの賭けはそのため。紗菜がノートを取りに教室に戻って来るまで、勇一を引き止めるための口実だ。勇一を窓を背にして座らせ、俺は窓の向こうに見える演劇部の部室を見張っていた。紗菜が部室から出てくるのを見て俺はマジックを切り上げ、職員室に行くと嘘をつき、紗菜のノートとかき氷のサービス券を勇一に託したのだ。  きっと今頃勇一と紗菜は仲良くかき氷を食べている。その帰りにデートの約束でもしていればいい。もうすぐ夏休みだし。告白にはうってつけだ。  俺はカバンからトランプを取り出すとその場に立ち上がる。指が震えて上手くシャッフルできず、二、三度床にぶちまけて慌てて拾い集めた。  なんとかシャッフルし終えると、さっき勇一に見せたようにトランプを扇状に広げた。踊り場には誰もいない。 「た、種も仕掛けもありません。た、ただし……ちょっぴり、魔法が、こ、込めてあります」  喉が震えて上手く話せない。紗菜の笑顔を思い出すと、目元が熱くなる。  紗菜にも勇一にも幸せになってほしい。もし二人が結婚したら、俺は披露宴でマジックをすると決めている。当たり前じゃないか。二人は大事な友達だから。 「……さあさあ、お客様、お、お好きなカードを一枚お引き下さい……」  手から力が抜けて、トランプが全部ばさりと床に落ちた。一枚一枚が床に散らばり、俺はその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて顔をうずめると、一気に涙があふれてきた。鼻水までずるずる出てくる。  バカだな、高校生にもなってこんな大泣きするなんて。ただの初恋じゃないか。しかも紗菜が選んだのは親友の勇一なんだから喜ばないと。マジシャンはどんなときだって誰かを笑顔にするのが役目だから、自分が泣いていたら誰も笑顔にはできないんだ。  こんなに泣いている奴が世界一のマジシャンを目指しているなんて、聞いてあきれるーー。  俺は目の前に差し出されたハンカチを顔を上げられないまま受け取り、顔をぬぐってついでに鼻をかんだ。  ああ、昔『こどもマジック大会』の決勝で負けたとき、悔しくて泣きじゃくる俺に紗菜がこんな風にハンカチを貸してくれたな。勇一は肩をぽんぽん叩いて、「広海のマジックは最高だったし、次があるよ」と言ってくれた。本当に昔から沙菜と勇一はいい奴らだ。  ……ハンカチを、貸してくれた?  ふと俺は手元のくしゃくしゃにした白いハンカチを見つめた。このハンカチ、誰の?  はっと顔を上げると最初に見えたのはすらりと伸びた足と制服のチェックのスカートだった。いや断じて足を見たわけじゃない。……正直に言うときれいな足だと思った。思ってしまいました。ごめんなさい。  視線を上げて息を呑んだ。  目の前にいた女の子は、涼し気な目で俺をじっと見つめていた。背が高く、スタイルがいい。ショートカットの黒い髪はつやめき、鼻筋が通った整った顔立ちで、まるで女優みたいにきれいだ。というより美しいーー。こんなきれいな女の子、初めて見た。こんな子、うちの学校にいたのか……?  その子は膝をついて俺と視線を合わせると、顔を寄せて「大丈夫か」とやや低い声で俺に尋ねた。その子がキラキラと眩しく輝いているように見えて、思わず俺は「ひえっ!」とよくわからない悲鳴を上げる。  するとその子ははっと身を引いて、 「すまない。君の様子が気になって。目が悪いから、近づかないとよく見えないんだ。眼鏡を部室に置いてきてしまってーー」 「は、はい……、そうなんですね……。すみません、変な反応をして……。俺はこの通り大丈夫です」  俺は呆けたように口を開けたままその子を見つめる。その子は尚も俺をじっと見つめると、「君がそう言うなら大丈夫なのだろう」とほんの少し唇を上げて微笑んだ。それがまたたまらなく魅力的で、俺はつばを飲み込む。 「これ、君のだろう?」  その子は俺に一枚のトランプを差し出した。ハートのAだ。 「君を探していたのだが、そこの階段の下に来たときに上からちょうどこれが舞い落ちてきたんだ。もしかしたらと思って来てみたら、君がいたというわけだ」  俺はハートのAを受け取りながら、「俺を、探していた?」と首をひねる。  その子は形の良い眉をしかめると、 「紗菜から聞いていないのか? 紗菜がマジックのことなら君に聞くのが一番だから、私のことを伝えておいてくれるとさっき言っていたのだが」 「いや紗菜とは放課後は会ってなくて、すれ違ったんだと思う、いや思います……。あなたは沙菜と友達なんですか?」  すると彼女はぽかんと俺を見つめ、やがて小さく笑ってから、 「紗菜とは友人だ。だが、君がそう言うのも無理はない。紗菜と私ではだいぶ印象が異なるからな。ーーそれで本題に入るのだが」  彼女は唇を引き締めると、目を細めて俺を見つめた。 「私にマジックを教えてくれないだろうか。十月の学校祭までに必要なんだ」 「はい、もちろんです。喜んで」  即答した俺に彼女は目を丸くする。 「まだ何も説明していないが」 「あなたの助けになるなら、これ以上の喜びはありません」  彼女は唇に手を添えてふふっと笑って、「それはありがたい。君は優しいのだな」とつぶやくと、 「だが詳しく説明する必要があるだろう。私は学校祭の演劇部の公演で、主役の怪盗を演じることになった。すると部員たちから舞台上で怪盗がマジックをする演出をしたいという話が上がったのだが、私はマジックのことは何も知らない。それで、紗菜が君に習うのが一番だと教えてくれたのだ。ーーそういうわけなのだが、どうだろう、私にマジックを教えてくれないだろうか」  俺はがくがくと何度もうなずいた。  それから「練習を見てもらったり、質問するかもしれないから」と彼女に頼まれて、スマートフォンの連絡先を交換した。  その後彼女は床に散らばっていたトランプを手早くかき集め、俺も慌てて一緒に拾う。そろえたカードを渡してくれると彼女は立ち上がって、俺に頭を下げた。 「このような頼み事を引き受けてくれてありがとう。一生懸命練習するのでこれから宜しく頼む」 「は、はい……」  それから俺の顔をじっと見つめると、ささやくように言った。 「君の雨も上がったようだな」 「え……」 「もう涙が止まっているから」  いつの間にか頬を濡らしていた俺の涙は乾いていた。途端にカーッと顔が熱くなる。あんな泣き顔をこの子に見られたなんて恥ずかしすぎる。 「じゃあ、また。連絡する」  彼女は俺の反応をまったく意に介さず、くるりと振り返ると階段を降りていってしまう。  俺は呆然と彼女がいなくなった階段を見つめ、やがてはっと手元のハンカチに視線を落とした。あの子に返しそびれた。でもハンカチは俺の涙でぐしゃぐしゃな上に、俺はこれで鼻までかんでしまった。最低だ。洗濯したとしても絶対もういらないだろう。代わりのハンカチを贈らないと。  俺はスマートフォンのメッセージアプリを立ち上げた。とりあえずあの子に借りっぱなしのハンカチのことを謝ろう。そう思ったときにふと気づいた。そういえば、あの子の名前を聞きそびれていたな、と。だから画面にさっき聞いたあの子のIDを映し出した。 「へっ?」  画面に浮かんだ名前を見た途端、俺は素っ頓狂な声を上げる。 『藤居 真帆』  それがさっき連絡先を交換したあの子の名前だった。この名前はよく知っている。同じクラスで、紗菜の親友で、演劇部員の、黒縁眼鏡をかけた長身で無口な大人しそうな女の子。  眼鏡のせいでわからなかったけど、あんなに美人だったのか。それにすごく……、ものすごくかっこいい。まるで少女漫画の王子様だ。怪盗役なんて絶対似合うに決まっている。学校祭が終わる頃には、学校中の人気者になるだろう。 「あんなの反則だろ……」  体中の力が抜けて、俺はへなへなと床に座り込んだ。  こんなの誰が予想できるんだよ? 十年以上も抱えた初恋が終わったと思ったら、突然ハンサムな女の子に心を奪われるなんて。 『君の雨も上がったようだな』  ふと藤居さんのさっきの言葉が頭をよぎる。  踊り場の窓から見える空はさっきまでの雨が嘘のようにすっかり晴れ渡り、夏の日差しが照りつけている。 「舞台映えするマジック、研究しておかないとな……」  俺は頭をかきながらそうつぶやくと、立ち上がって階段を二段飛ばしで駆け下りた。
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