梨香子

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「結局僕は、お姉さんを見捨てて逃げました」  男は掠れた声で言ったあと、虚な目で宵山の左肩のあたりを見つめる。その表情は、人間の理性が恐怖に勝てないことを物語っているようだった。    男は家に着いてすぐ、ことの顛末を両親に洗いざらい話したそうだ。酒を飲んで顔を赤らめていた両親も、話を聞いているうちに、みるみる青ざめていったという。「やっぱり、あの山には人を食う化け物がいるんだ」と、父親はうわごとのように呟いた。傍で聞いていた母親は「悪い子どもを山へ入るように仕向けて、始末しようとする人間もいる。お前が無事でよかった」と、涙を流したそうだ。だから近所の人は素行の悪い自分にやたらと山を推してきたのか、と男は腑に落ちるものがあったらしい。  そのあと泣きじゃくる男の肩に手を置いて父親は言った。「いいか、お前は山になど行っていない。女の子が何かに食われたのも、お前がそれを見て逃げ出したのもぜんぶ夢だ。悪い夢を見ていたんだよ」そこで記憶がぷつりと途切れ、次に目を覚ましたときには、病院のベッドの上だったという。両親曰く、熱中症で倒れ、五日間も眠ったままだったらしい。もうその頃にはあの日の記憶はさっぱり無くなっていたそうだ。  男は深く息を吐く。  記憶がよみがえらないほうが、良かったのではないか。宵山は思う。淡々とした男の話を聞いていると、薄暗い店内の雰囲気も合わさり、なんだか梨香子が背後に立っているような気がして落ち着かなかった。宵山は不安を拭うように首を振って、一思いに振り向いた。  そこには無人のステージがあるだけだった。    
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