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「今、なんて言いました?」
宵山が突然、話の腰を折った。
男は、宵山の言う今がどこを指しているのかわからず首を傾げる。
「ええと、白いワンピースが赤く染まって」
「その前です」
「梨香子さんが———」
男がもう一度、その名前を口にした瞬間だった。先ほどの比ではない頭痛が宵山を襲ってくると同時に、今まで決して開くことのなかった、いくつもの記憶の引き出しが、ものすごい勢いで開き始めたのである。
どうして今まで忘れていたのだろう。
宵山には歳の離れた『梨香子』という姉がいた。母親の再婚相手の連れ子だった。親同士が籍を入れた翌年、宵山は夏休みを利用して父の実家に滞在することになった。中部地方のとある田舎町だった。
そこで、宵山は井出川学という同い年の子と知り合った。当時流行っていたアニメの主人公と同姓同名だったから、名前もすぐに覚えた。記憶の中の彼は、ハーフパンツがよく似合う活発な子だった。田舎へ行って一週間が経ったある日、『入ってはいけない山』へ行く約束をした。そのことを何気なく祖父母に話すと、二人はすごい剣幕で怒りだした。理由は詳しく思い出せないが、人を食う化け物がどうとか、そんな内容だったと思う。怖くなった宵山は、行くのをやめることにした。
「学くんには、熱が出て行けないって伝えておくね」
翌日、姉の梨香子はそう言って学に会いに行ったきり戻ってこなかった。正確には、宵山が次に会ったときにはもう、梨香子は小さな棺桶に納められていたのだ。不思議に思った宵山がどれだけ聞いても、両親は梨香子の死因について話してはくれなかった。
そして、その出来事から一ヶ月も経たないうちに両親は離婚した。母親に引き取られた宵山は、毎日のように「あの田舎で体験したことは全部夢だ」「お前に姉はいない」「あの葬式はお母さんの友人の娘のものだ」と擦り込まれ、梨香子の記憶を失ったのだ。
とにかく頭が痛かった。
宵山は深く息を吐き、目の前の男に向き直った。どうにか平静を装いつつ、「妙なことを言ってすみません。どうぞ続けてください」と、額を手の甲で拭う。嫌な汗をかいていた。
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