聖なる水たまり

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聖なる水たまり

 丸テーブルの向かいに座る女性スタッフ。ノートパソコンの画面から視線を移すと、その声色に同情を滲ませた。 「さようでございますか……今回ご紹介の女性も、期待したお相手とは違っていたと――」  もう何度目だろう。理想の女性との出会いを求めてここにやってくるのは。望む結果が得られないのは、ここのサービスの質の問題? それとも、俺自身に問題があるのか? いや、望んだ相手が現れない時点で、俺に非なんてないはずだ。  苛立ちを抑えるために頭を掻く。そんな俺を憐れむように、スタッフの表情はどんどん崩れていく。と、その時だった。 「少しよろしいでしょうか?」  スタッフが切り出した。 「おかしな話だと思われるかもしれませんが、当社のサービスには特別なものがございまして」 「と、特別な?」 「さようでございます」 「ちなみに、どういった……?」 「雨上がりの日に、特別な出会いをご用意するサービスでございます」  特別というフレーズに心躍らされた俺は、前のめりになり、スタッフの説明を欲した。 「雨が上がったあとは、道路に水たまりができるでしょう? その水たまりの中に飛び込んでいただくのです。そこには弊社が用意した空間が広がっており、そこで山下様の理想の出会いをご準備しております」  はぁ? 新手のクレーマー対策か? ファンタジーの世界じゃあるまいし。一向に成約しない俺に、サービスの利用を諦めさせようとしているに違いない。呆れて席を立とうとした俺に、スタッフは小声で囁いた。 「弊社ビルを出て、右に歩いていただき、ひとつ目の曲がり角を右に曲がっていただきます。雨上がりにはいくつか水たまりが並びますが、三つ目の水たまりでございます。そこに飛び込んでいただければ――」  馬鹿げた話を真顔で俺に説明するスタッフ。その様子に少したじろぎはしたが、真剣な客を舐めてもらっちゃ困る。不満をぶつけるように何度も首をひねりながら席を立つと、礼も言わずにその場を立ち去った。 「ひとつ、ふたつ……みっつ。この水たまりか?」  ある日の雨上がり。俺は足元の水たまりの数を数えていた。あのスタッフの話を信用したわけじゃない。ファンタジーに(すが)るほど、出会いに飢えているだけだ。  異性との出会いのチャンスなんて、そこら中に落ちていると思っていた。気が向けば恋愛をし、適当な相手が現れれば結婚する。漠然とした人生設計を描いていた若い頃。そんなぼやけた青写真は見事に打ち砕かれた。女性のいない職場環境。多忙を極める日々の仕事。ただ年齢を重ねていくだけの毎日に、焦りを感じ、もう何年になるだろう。 「うりゃっ!」  やけっぱちになった俺は、自らをあざ笑うかのような心持ちで、水たまりへとジャンプしていた。  ん?  普通だったら、そのまま水たまりに着地。雨水が跳ね上がり、靴もズボンの裾もびしょ濡れ。夢物語を信じてなどいないはずなのに、念のため一張羅を着込んできた情けない自分を鼻で笑って、はい終了。  そんな冷めきった予想とは裏腹に、俺の身体は水たまりに飲み込まれていった。 「クソっ! またかぁ……」  今回の出会いは実ると思っていたのに。金融業界に身を置く、二歳下の今村香菜さん。出会ってすぐにやり取りを交わすようになった。趣味も似ていて、性格的な相性も悪くない。メッセージを通じて伝え合う互いの人となり。やり取りを重ねるごとに、相手への期待は高まっていった。ところが、初回のデートを終えたあとから、連絡しても返事がかえってこなくなった。 ――超理想のタイプだったのになぁ。  何度も似たような経験をし、俺は昨今の恋愛の傾向を理解しはじめた。  現代の恋愛は、減点方式だ。  検索すれば望む情報を手にできる時代。好みの条件を指定すれば、希望のものとマッチングされるサービスも溢れかえっている。つまりは、求める条件とマッチしていることを前提に、人はリアルに触れる。  それがどういう弊害を生んでいるか?  期待値が満点の状態で物事に触れることが常態化し、期待から外れるものを目の当たりにした瞬間、減点をつけ、それを切り捨てる。恋愛においては、特にその傾向が顕著だ。より自分にふさわしい満点の選択肢があるはずだ。そう信じ、容赦なく切り捨てる。多少の違いも個性だと捉え、お互いに理解を深めていった昔の恋愛とは大いに違っている。もはや現代の恋愛にロマンなどないということだ。 「あぁ、雨はまだか……」  梅雨の時期はよかった。待ち焦がれなくとも雨は降り、雨上がりを見計らっては、出会いを求めて水たまりに飛び込んだ。  ところが、梅雨が明け、夏が近づくと、雨の気配は完全に消え去った。  実際に、水たまりの向こうの世界で出会う女性は、紹介所を通じて紹介される出会いとは明らかに違っていた。そこで出会う女性のすべてが、俺にとっての理想の相手なのだ。そこに行けば必ず満たされる。たとえ恋愛が成就しなくても、次への期待が途切れることはなかった。まるで、雨上がりの空にかかる虹を眺める気分で、巡り合う女性を眺めていた。  季節による嫌がらせに、出会いのチャンスを奪われた俺は、これまで以上に焦った。水たまりの向こうには、まだ見ぬ出会いが待っているというのに、その扉は閉じられたまま。どうにかできないものか。  孤独を強く意識するようになった俺は、心の隙間を埋めるように毎晩飲み歩くようになった。二日酔いの毎日は、仕事の質も低下させ、会社内での評判も落としていった。 「おーい、俺の理想の女はどこだー? でてこーい! 今すぐ出てこーい」  今日も今日とて、飲み過ぎた。ひどい頭痛と霞む視界。真っ直ぐ歩こうにも、身体は蛇行を続けるばかり。俺は今、どこをほっつき歩いているのだろうか。 「ん?」  気づけば例の場所に来ていた。俺の出会いの扉。聖なる水たまりの場所。  ここ最近、雨など降ってやしない。猛暑だの酷暑だの記録的暑さだの、いい加減、もううんざりだ。それなのに、足元には水たまり。  酒がまわり幻覚でも見ているのか? 出会いへの飢えが、俺に幻でも見せているのだろうか?  ゴシゴシと目を擦り、改めて視線を足元に。そこには確かに水たまりがある。  俺は運命を感じた。きっとこのチャンスは花開く。こうして俺を迎え入れようと、奇跡の扉が開かれているんだもの。  小さくガッツポーズした俺は、極度の期待感に包まれながら、少年のように無邪気にジャンプした。そして、水たまりに身体を投げ込んだ。投げ込んだ? あれ? おかしいぞ。いつもと様子が違う。  ビチャッという音とともに、水たまりへと着地。靴もズボンの裾もびしょ濡れだ。呆気に取られていると、背後から高笑いが聞こえてきた。  振り返るとそこには、ひどく酔った中年男性の姿。こちらを見て嘲笑する酔っぱらいは、無情にも言い放った。 「しかし、世の中、変わった人間もいるもんだなぁぁ。俺の立ち小便(ションベン)の池に向かって飛び込もうとしてやがる」
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