水面に呼ばれて

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 ※※※  オレは目を覚ました。  がばりとベッドから身を起こすと、そこは自分の部屋だった。  たしか、オレは川に飛び込もうとする男を止めようとして、逆に川へ落とされてしまったはずだ。あれは夢だったのだろうか。それにしては記憶が鮮明に残っている。  時計を見た。7時11分。窓からは爽やかな朝日が差し込んでいる。  オレはパジャマから制服に着替え、二階から一階に移動して洗面所に入った。  蛇口を捻り、両手に水を貯める。水面に自分の顔が映った。  川の水面を思い出す。あの時、自分は顔から水面にぶつかったはずだ。こんな風に。  オレは顔を両手の水面に沈めた。気持ちの良い冷たさを感じる。  このような冷たさを、あの時感じただろうか。いや、何も感じなかったはずだ。冷たさどころか、痛みすらない。あの高さから落ちたのだから、顔に傷くらい残っていないとおかしい。  オレは洗面台の鏡を見た。だが、顔には傷一つ付いていなかった。手で押さえてみても、痛む箇所は無い。  やはり、あれは夢だったのだろう。最初は夢にしては鮮明すぎると思っていたが、今は記憶がぼやけている。自分が必死に止めようとしていた男が、どのような姿だったのか思い出せない。これも夢だからなのだろう。  オレは洗顔と歯磨きを済ませ、キッチンに行った。  母はテーブルに座って朝食をとっており、父は食べ終わって隣のリビングで新聞を読んでいた。 「おはよ」  オレは二人にあいさつした。  父は新聞に目を向けたまま「おはよ」とぶっきらぼうに返事をした。 「おはよう。今日はちょっと早いわね」と母。 「うん、たまたま目が覚めた」  オレは席に座り、朝食をとった。テーブルの向側に座っている母に尋ねる。 「姉ちゃんはもう出かけたの?」  すると、母はきょとんとした顔をして言った。 「今、姉ちゃんって言った?」 「うん。もう大学に行ったの?」 「あはははは」  突然、母が笑い出した。 「え、なんかおかしいこと言った?」 「早く起きてきたと思ったら、あんた寝ぼけてるわね。あなたにお姉ちゃんなんていません」 「え?」  リビングにいた父も笑って言う。 「顔洗ったのか? 浩治」 「いや、え? でも、あれ?」  オレは頭が混乱した。自分には姉がいたはずだ。それとも、これも夢なのだろうか。言われてみればそのような気もする。姉との思い出など、本当に存在しただろうか。どの記憶も現実身の無い妄想のように感じられた。 「そうだった。変な夢見てたからさ」  オレは照れ笑いをして言った。 「あんまり寝てないんじゃないの? もうすぐ受験だからって、徹夜なんかしちゃダメよ」 「う、うん、分かってる」  姉なんていない。自分にそう言い聞かせるが、オレの胸には言い知れぬ違和感が残った。  朝食を食べ終わると、オレは学校に向かうため家を出た。  玄関を出て、なんとなく表札を見る。白い石に『日高』と彫られていた。  自分の名前は日高だ。何も変なところは無いのに、なぜか胸がざわつく。  オレは「嫌な朝だ」と呟き、通学路を歩き始めた。  この日は朝から快晴だったが、夕方になるとどんよりとした曇り空になった。オレは家から傘を持ってきていなかったので、雨が降る前に帰ろうと、足早に歩いていた。  交差点を右に曲がると、針川橋が見えた。  今日、この橋に関係する夢を見たような気がする。  オレは一瞬そう感じたが、夢の内容を思い出すことができなかった。  印象深い夢だったと思うのだが、こんなにすぐ忘れてしまうことなどあり得るだろうか。  オレは不思議に思いながら、橋を渡ろうとした。  その時、橋の下から声がした。誰かいるのだろうか。  オレは欄干から身を乗り出し、川を覗き込んだ。  そこには信じられない光景があった。  両親と姉の姿が、川の水面に映し出されていたのだ。 「直樹、直樹」  三人が必死にオレを呼んでいる。三人とも泣いていた。  オレはすべてを思い出した。自分の名前は日高浩治ではなく田村直樹で、川に映っている三人こそが本当の家族だ。  オレは脚を上げ、欄干を跨ごうとした。  その時、後ろから誰かに腕を引っ張られた。危うく後方に倒れそうになる。  見ると、そこにはスーツ姿の若い女性が立っていた。以前、この橋から落ち、姿を消した女の人だ。 「自殺なんかしちゃダメ」  そう言ってオレの腕を強く握りしめる。 「自殺じゃありませんよ。離してください」 「自殺じゃないなら何? こんなところから飛び込んだら大怪我するでしょ? 川に入りたいなら土手から行きなさい」 「いいんです。ここからで」 「いいわけない。あなたはまだ若いから、くだらないことで絶望しちゃうの。もし大人になったら、あの時自殺しなくて良かったってきっと思うわ」 「だから自殺じゃないですって。怪我もしません。この世界は偽物なんです。だから本物の世界に戻るだけですよ。それはあなたも同じだ。忘れているだけで」 「現実を見なさい。ここが本物の世界よ」 「あなたは騙されているんです。向こうの世界に行けば分かります。オレだけじゃない。あなたも元は向こうの世界の人間なんです。オレと一緒にここから飛び降りましょう」 「そんなの嫌に決まってるでしょ。馬鹿なこと言わないで」 「じゃあ、オレだけ飛び降ります。だから止めないでください。これ以上止めるなら、無理矢理あなたを連れて落ちますよ」 「……」  彼女は目に恐怖を浮かべ、オレの腕を離した。  オレはまた欄干を跨ごうとした。  その時、ぽつりと頬に水滴が当たった。雨だ。水滴はたちまち数を増やし、辺りを濡らしていく。  オレは川を見下ろした。三人の姿はもう見えなかった。  あの三人は、いったい誰だったのだろうか。そして、なぜあの三人を家族だと思い込んだのだろうか。まったく身に覚えがないあの三人を。  しかも、オレの名前は日高浩治であって、田村直樹ではない。どうしてこんな馬鹿げた勘違いをしたのか……。  オレは頭が混乱してどうにかなりそうだったが、とりあえず目の前にいる彼女にお礼を言った。 「オレ、どうかしてたみたいです。止めていただいてありがとうございました」  彼女は笑って言った。 「どうしたのよ。急に冷静になって。死ぬのが怖くなったの?」  本当の理由を言っても信じてもらえないと思い、オレは適当に相づちを打った。 「……まあ、そんなもんです」 「死を恐れるのは恥ずかしいことじゃないのよ。むしろ、死を選ばなかったあなたは勇気があるわ」 「そうなんですかね……」 「あなた傘持ってないでしょ。一緒に帰りましょうか」  彼女は傘を開いて言った。 「いいんですか?」 「ええ、なんなら家まで送ってあげる」 「いや、家近いんで大丈夫です」 「だったら尚更送ってあげる。遠慮しないで。子供はもっと大人に甘えればいいのよ」 「そうですか。じゃあ、遠慮なく」  オレは彼女の傘に入れてもらい、二人で並んで歩いた。  歩きながら、彼女が言った。 「私と別れた後に、また川に戻って自殺するなんて止めてよね」 「しませんよ、そんなこと。オレはもうあの橋が怖くて仕方ないんです。二度と近づきません」  これは本心だった。またあの幻覚に惑わされ、橋から飛び降りたらと思うとゾッとする。 「そう。ならいいけど。もし、また君があの橋を飛び降りようとしてるのを見つけたら、絶対に止めるからね」  彼女はとてもいい人で、ずっとオレが自殺しないように諫め、この世に希望が持てるよう励ましてくれた。  10分程話ながら歩き、家の前に着いた。  オレは彼女にお礼を言い、玄関のドアを開けた。中に入る前に、さっきから気になっていたことを尋ねた。 「あの、変なことを訊くようですけど、前にどこかでお会いしませんでしたか?」  彼女は不思議そうに答えた。 「え? そんな覚えないけど……」 「……ですよね。すみません、変なこと言っちゃって。今日は本当にありがとうございました」 「どういたしまして」  オレは家に入り、玄関のドアを閉めた。
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