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オレは高校からの帰り道を傘を差しながら歩いていた。今は梅雨時で、しとしとと雨が降っている。
交差点を右に曲がると、前方に針川橋が見えてきた。
針川は幅が50メートル程ある大きな川だ。
そこに架かった針川橋の中央に、一人の男子学生が立っているのを見つけた。
オレと同じ制服を着ているので、同じ高校の生徒のようだ。
だが、学年は違うらしく、顔に見覚えはない。
その男子生徒は、右手に傘を持ち、左手を欄干にかけ、じっと川を見下ろしていた。
いったい何を見ているのだろうか。
オレは気になったので、橋を渡る時に声をかけようと思った。
あと数メートルで橋に着く。
オレは少し歩くスピードを速め、橋の手前まで来た。
その時、傘を打つ雨の音が止まった。雨が上がったらしい。
すると、橋に立っていた生徒がはっとした顔つきになり、川を見下ろすのを止め、橋を渡ってそそくさと去って行った。
声をかけそこねたオレは、さっきの生徒が何を見ていたのか確かめるため、橋の中央まで来て川を見下ろした。
しかし、変わったところは何もなかった。川底の石に潰れた空き缶が引っかかっているくらいだ。まさかこんな物を凝視していたわけではないだろう。
結局、あの生徒が何を見ていたのか分からないまま、オレは橋を渡って家に帰った。
翌日の夕方、学校が終わり、オレはいつもの帰り道を歩いていた。今日も雨が降っている。
針川橋が見えるところまで来ると、また橋に誰かが立っていた。スーツを着た女の人だった。
女性は昨日の男子生徒と同様に、橋の中央に立って川を見下ろしていた。
やはりあの場所から何か珍しい物が見えるらしい。
オレはそう思い、近づいて声をかけることにした。
橋を渡り、2メートル程離れた位置まで来て、オレは彼女に声をかけた。
「あの、何を――」
その時だった。彼女は返事をせず、傘を手放したかと思うと、腰の高さしかない欄干に倒れ込み、頭から川へと落ちていった。
橋の高さは10メートル以上あり、川は浅い。落下すれば、死んでもおかしくないだろう。
オレは急いで川を覗き込んだ。
だが不思議なことに、川に落ちたはずの女性がどこにも見当たらなかった。開かれたまま流されていく傘しか見えない。
川の深さはせいぜい膝くらいまでしかなく、水も多少濁ってはいるが、底が見える程度には透けている。川に落ちた人を見失うことなど絶対にない。
橋の真下にいるのかと思い、橋を渡り切って土手から下を覗いてみたが、そこにも彼女はいなかった。
オレは気味が悪くなった。もしかしたら、彼女は生きた人間ではなく、幽霊なのかもしれない。
そういえば彼女が川に落ちた時、どぼんと水に沈む音がしなかった。
オレは身震いして橋から離れた。
あの女性は幽霊としか考えられない。おそらく生前、この橋から飛び降りて自殺したのだろう。取り憑かれていなければいいのだが。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
オレは念仏を繰り返し呟きながら帰った。
家に着き、中に入ると、居間からテレビの音と姉の笑い声が聞こえてきた。
俺は居間の戸を開け、姉に尋ねた。
「姉ちゃん、針川橋で自殺した人がいるって聞いたことある?」
姉はちらっとこちらを見た後、またテレビに視線を戻して言った。
「え? 聞いたことないけど。針川で溺れて死んだ人がいるってのは何回か聞いたことあるよ」
「それならオレも知ってる。溺死者じゃなくて、自殺者がいたか気になるんだ」
「なんでそんなこと知りたいの?」
「見ちゃったんだよ。橋から飛び降りる幽霊」
「あーもー、そういうの嫌いだって知ってんでしょ。やめて」
「女の人が橋から」
「あー聞こえない聞こえない」
姉はそう言ってテレビの音量を最大まで上げた。
「うるせえよ。もう言わないから音量下げてくれ」
オレは呆れながら戸を閉め、二階に行って自分の部屋に入った。
姉が大の怖がりで、怪談嫌いなことをすっかり忘れていた。大学生になった今でも克服できていないらしい。
そんなことを思いながら、オレは受験勉強をするため机に問題集を広げた。
六日後、その日の帰り道も雨が降っていた。
オレは針川橋が見える所まで来たが、前に雨が降っていた時と違って、橋には誰も立っていなかった。
そのまま橋を渡り、中央まで来た時、橋の下から声が聞こえてきた。
誰かいるのか、と思い、欄干から身を乗り出して川を覗くと、そこには信じられない光景があった。
まるでスクリーンに鮮明な映像が映し出されているかのように、両親の姿が川の水面に映っていた。
オレの両親は既に死んでいる。その両親が笑いながらこちらに手を振っているのだ。「浩治、浩治」と、オレの名前を呼びながら。
「父さん、母さん。今行くよ」
オレは目に涙を浮かべて呟くと、欄干から前のめりに倒れ、川に飛び込もうとした。
その時、誰かに肩を掴まれた。後ろに引っ張られ、尻餅をつく。
見ると、以前この橋にいた男子生徒が立っていた。
オレは立ち上がって言った。
「余計な事すんじゃねえよ」
男子生徒が言う。
「川に死んだ家族の姿が見えたんでしょう?」
オレは図星を指されたことに驚き、理由を尋ねた。
「……どうして知ってるんだ?」
「僕も見たからです」
「え?」
「僕も川の水面に映る家族の姿を見ました。でも、本物の家族ではありません。偽物の家族です」
「どういうことだ? 意味分かんねえよ」
「それに答える前に、まず自己紹介をしましょう。僕は神田稔っていいます。旗崎高校の一年です。えっと、たぶん旗崎の先輩ですよね?」
「あ、ああ。オレも旗崎。三年だ」
「先輩の名前は?」
「日高浩治だけど」
「本当にそうですか?」
「は?」
「先輩の名前は、本当に日高浩治ですか? 本当は違う名前なんじゃないですか?」
「さっきから何言ってんだよ。自分の名前を間違えるわけないだろ」
「じゃあ――」
神田がそう言ったとき、傘を打つ雨の音が消えた。
「雨が上がりましたね。どうです? まだ先輩の名前は日高浩治ですか?」
「当たり前……だ、ろ」
違う。オレは日高浩治ではない。田村直樹だ。どうして自分の名前を勘違いしていたのだろうか。
それだけじゃない。オレの両親はまだ生きている。しかも、川に映っていた男女は、オレの両親とはまったくの別人だ。どうしてあの二人を両親だと思ったのか……。
オレはまた川を覗き込んだ。しかし、二人の姿は消えていた。
混乱するオレを宥めるように、神田が落ち着きを払った声で言った。
「気づきましたね、先輩」
「ああ、オレは田村直樹だ。日高浩治じゃない」
「僕も前に同じような経験をしたんです。川から声が聞こえたので見下ろしたら、僕を呼ぶ男女と、それから幼い男の子が見えて、三人を死んだ両親と弟だと思い込みました。本当の両親は生きていて、弟なんていないのに、です。それから、自分の名前が神田稔ではなく、大嶋和也だとも思い込んだんです。でも雨が上がったら、その思い込みは消えました」
「そうか。オレが見たのは二人の男女だけだった。いったいなんなんだろうな、あの幻覚」
「分かりません。でも一つ言えるのは、川に落ちない方がいいということです。死んでもおかしくないでしょうから」
そう言われ、オレは六日前に川に落ちた女性のことを思い出した。
「そういえばこの前、橋から落ちた女の人を見たんだよ。今日みたいに雨が降ってる日だった。オレは急いで川を見たんだけど、女の人はどこにもいなくなってた。たぶん、あの人もオレ達と同じような幻覚を見て、川に飛び込んだんだ。そして姿を消した。オレも神田君に止めてもらえなかったら、あの人みたいに消えてたのかもしれない」
「もし川に飛び込んだら、あの偽物の家族がいる異世界に飛ばされるのかもしれませんね。嘘みたいな話ですけど。雨が降ってる日は、この橋を渡らない方がいいみたいです」
「そうだな。とにかく、助けてくれてありがとう。神田君は命の恩人みたいなもんだ。何かおごってやろうか?」
「いいですよ、お礼なんて」
二人は話しながら橋を渡り、一緒に帰った。
四日後、その日も雨が降っていた。
オレはいつもの道を歩いて家に帰ろうとしていた。雨の日は針川橋を通らないルートで帰ろうと決めていたが、いつもの癖で同じルートを選んでいた。
そして、針川橋が見える所まで来た時、一人の男が橋に立っているのを見つけた。髪を金色に染め、ジャージを着た若い男だった。
男は欄干から身を乗り出し、川を見下ろしている。
どうやらこの前のオレと同じものを見ているらしい。このままでは男は川に飛び込んでしまう。
オレは急いで男の元まで走った。
思った通り、男は欄干の向こう側へと倒れ込もうとした。
間一髪のところで間に合い、オレは背中からしがみついて、男と一緒に後ろへ倒れた。
「離せ、やめろ」
男がオレを怒鳴りつける。だが、オレは懸命に男を説得しようとした。
「飛び込んだらダメです」
「うるせえ」
男は力が強く、しがみついていたオレの腕を振りほどき、また欄干から身を乗り出した。
オレは男の腰にしがみついて言った。
「オレの話を聞いてください」
「うるせえっつってんだろ」
男はそう言ってオレのこめかみを殴りつけた。
オレは一瞬意識が飛び、しがみつく力が弱まった。
それに乗じて、男はオレの服を掴んで持ち上げ、川へと放り投げた。
オレの身体は宙を舞い、真っ逆さまで水面に衝突した――。
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