アフォガート

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「えっ!そうなんですか!」 「そうなんだよ」  辻崎社屋ビルには一般社員が出入り出来ない階層がある。その階に行くには社長、副社長、常務、本部長の採決が必要で合格した者だけに手渡されるICチップ内蔵の黒にプラチナのラインが入ったカードが必要だ。これをエレベーターの読み取り口にかざせば上階に上る事が出来た。 8階 本部長付き秘書室 9階 本部長室 10階 常務室 11階 副社長室 12階 社長室  さらにこの上の階は社長のプライベートルームで家族以外は立ち入り禁止だ。 13階 社長宅 14階 辻崎家プライベートダイニング(通称*食堂) 15階 ゲストルーム 16階 副社長宅  果林は16階の副社長宅に宗介と暮らしていた。そして今は家族団欒の夕食、板前の板さんが腕を奮った和食に箸を付けたところだった。相変わらず果林は魚の骨を(むし)る事が苦手で「ちょっと貸してみなさい」と澄まし顔の宗介が器用に骨を外してくれた。 「えっ!そうなんですか!」 「総務課フロアで大笑いしたらしいんだよ」 「そ、宗介さんが」 「あらあら、やんちゃな副社長さんねぇ」 「背中が痒かっただけです」 「宗介さんが高笑い、なんでまた」  宗介の奇行を果林に告げ口している男性は宗介の父、辻崎株式会社社長でもあり舅である宗一郎(そういちろう)。そして口元に手を当てて笑う女性は宗介の母、姑の佳子(よしこ)。 「えっ!そうなんですか!」 「果林さんへの慰謝料が決定したんだよ」 「あらあら、ゴキブリを踏んだ甲斐があったわねぇ」 「当然の事をしたまでです」 「このビルにゴキブリ?」  そして金沢駅前の一等地に空きが出来た事が話題に上った。 「えっ!そうなんですか!」 「木古内洋菓子店の跡地を買収してね家を建てようかと思うんだ」 「あらあら、それは素敵ね」 「確かに隠居生活には最適な環境ですね」 「なにを言っとるんだ」 「し、新居!」  宗介の両親は兼ねてより初孫は緑豊かな一戸建てに住まわせたいと考えていた。ところが当の息子は35歳、36歳と歳を重ねるばかりで初孫は叶わぬ夢かと気落ちしていたところに25歳のシンデレラが現れた。ここぞとばかりに宗一郎は新居の図面を引かせた。 (この子にしてこの親あり)  卵が先が鶏が先か、この似た者親子は報告、連絡、相談が無い。エレベーターホールから見下ろした空き地には既に重機が運び込まれていた。 「ーーーー宗介さん」 「にゃーに」 「その猫語やめましょうよ」 「もう!8時間も触れなかったんですよ!猫にもなります!」  玄関扉を後ろ手で閉めた宗介は果林にパンプスを脱ぐ間も与えずその手を引いてリビングのソファに座らせた。 (ね、猫じゃなくて虎の間違いじゃないの!)  そしてシンデレラの様にパンプスを脱がされ抱き締められた果林は目線をリビングテーブルに落とした。テーブルには<たまひよくらぶ(妊娠育児専門誌)>がありピンクの付箋が何枚か挟んであった。 「あっーーー果林さん、それは!」  どうやら昼休憩の際こっそり読んでいたらしい。 「これは、なんの付箋ですか」 「そ、それは」 「あっ、なにこれ!」 「ごめんにゃさい!」  そのページには妊娠中のセックスについて事細かに記載されていた。 「ーーーやっぱり宗介さんですよね」 「そういう訳ではなく」 「そういう訳ですよね」 「ーーーーー」 「ですよね?」  宗介は渋々「そうだにゃん」と顔を赤らめた。それにしてもこの猫語は勘弁して欲しい、平生(へいぜい)の副社長としてのギャップがあり過ぎてApaiser(アペゼ)の業務に支障を来たす。 「ーーー宗介さん、にゃん、ですか」  数ヶ月後に子どもが生まれたら「でちゅよね」が鉄板、それこそ目も当てられない。そこで果林は交換条件を提案した。 「宗介さん」 「はい」 (おお、珍しいまともな返答) 「そのプライベートでの猫語、やめませんか?」 「猫、猫、猫語?」 「まさか自覚が無いんですか」  そう言えば、義母から聞いた話に拠ると宗介は中学校まで犬を「わんわん」猫を「にゃんにゃん」と呼んでいたらしい。まさかの幼児退行現象か! 「そうだにゃ、とか言ってますよ」 「そうかにゃ」 「ほら、ほらーー!気持ち悪いですよ!」 「きも、気持ち悪い」 「そうです!あの凛々しい宗介さんは何処に行ったんですか!」 「凛々しい」 「はい」  そう言えば、婚姻届を提出しに行く日「宇宙の果てまで大好きです!」とかなんとか叫びながら部屋中を駆け回っていた記憶がある。 (意外と子どもっぽいって、いやいやいや39歳だよ!) 「宗介さん!」 「はい!」  果林と宗介は真向かいに正座をした。ゴクリと喉が鳴る。 「その猫語をやめたら、そ、そ、その良いです!」 「交換条件ですか」 「はい!ただし、出来る範囲ですよ!」 「やったにゃ!」 「はい、アウトーーー!」  それもその筈、果林と宗介は婚姻届を提出し翌々月には妊娠している事が明らかになった。宗介としてはやや物足りない。そこで書店で見た<たまひよくらぶ(妊娠育児専門誌)>の見出しに惹かれてレジまっしぐら。 「ーーーで、どうしたら良いんですか?」  宗介は目を輝かせて妊婦が嫌がったらすぐに止める事、お腹が張るので乳首には触れない事、感染予防の為にコンドームを着ける事など立板に水状態で説明を始めた。 (よっぽどかったんだなぁ)  然し乍らにゃん禁止令が発令された翌日には「ただいまにゃ」「お腹いっぱいだにゃ」とアウトがたて続きに続いて宗介はベッドの上で身悶えた。その様子に果林は少々気の毒になったが心の平安の為に鬼になった。 「はい!アウトーーー!」 「ああああ」  そんな事を繰り返していた2人だが、ある日1人の女性が秘書室を訪ねて来た。
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