アフォガート

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 秘書は「辻崎」と聞き怪訝そうな面持ちを精一杯の笑顔に切り替え、応接セットのマホガニーの椅子へと案内した。ビロードの座面は心地よく(あんず)を迎え、テーブルには香り立つアールグレイティーが置かれた。 「もうしばらくお待ち下さいませ」 「ありがとうございます」  杏 は小指を立て白磁のティーカップに口を付けた。その仕草はせせらぎの流れの如く優雅で美しかった。 「美味しいわ」 「ありがとうございます」 (ーーーー何処かで見た顔だわ)  宇野同様、秘書も(もや)掛かったその女性の後ろ姿を2度、3度と見ながら副社長室直通の受話器に手を伸ばした。この昼休憩の時間帯は緊急事態以外は繋がない規則だ。数回コールした所で宗介が受話器を上げた。 「なんだ!Apaiser(アペゼ)でトラブルか!」 「い、いえそうではありません」  宗介の中では、辻崎株式会社業務(よりも)Apaiser(アペゼ)の図式が出来上がっており、Apaiser(アペゼ)(イコール)果林で脳内は飽和状態だった。 「オーナー(果林)になにかあったのか!木古内和寿か!」 「いえ、木古内さまではなく」 「ゴキブリに様は要らない!」 (ゴキブリ?)  次の瞬間、宗介の動きは凍り付いた。 「副社長にお客さまです。辻崎 杏 さまと仰る方です」 「あ、杏」 「はい、お通ししても宜しいでしょうか?」 「あ、ああ。宜しく頼む」  秘書に付き添われて11階に通された 杏 は迷う事なく廊下を小走りに一直線、ノックをする事も無くその扉を開けた。 「宗介!」 「あ、あんんんんんん!」  宗介はマホガニーのソファから飛び起きると後退りした。秘書は(うやうや)しく頭を下げると副社長室の扉を閉めた。 (ーーーー!奥さまだわ!)  秘書はエレベーターのボタンを連打し8階に降りると逸る胸を抑えてレセプションの椅子に腰掛けた。  辻崎宗介には5年前に別れた妻がいた。名前は辻崎 杏(つじざきあんず)(38歳)、宗介と同じ辻崎姓だがそれは親戚筋の見合い結婚だったからだ。 「宗介、会いたかったわ!」 「杏、離婚して再婚したんじゃなかったのか!」 「だってぇ、なんだか違うんだもの。また離婚しちゃった」 「しちゃったじゃない!」  以前、14階食堂に勤務する板前の板さんが果林に愚痴を漏らした事が有ったが 杏 は困った気質の持ち主だった。 <ここだけの話、前の奥さんは見合い結婚でさ。兎に角人任せで俺も困ってなぁ。何を食べたいかも言わねぇし、かと思えば後でこれが良かっただのあれが良かっただのと湿気(しっけ)っぽい女だったね>  あれが良かったこれが良かった、 杏 はいつもの癖で「宗介が運命の相手!宗介しかいないわ!」と自由奔放な国イタリアから急遽帰国の途に着いた。 「あら、来ちゃ駄目だった?」 「困る」 「叔父さまと叔母さまにもご挨拶しなきゃ、13階だったわよね」 「ちょっ、待て、待て、待て!」 「なに」 「私には妻が居るんだ!」  杏 の眉間に皺が寄った。 「女嫌いなあなたが妻!信じられないわ!」 「私がいつ女嫌いだと!」 「いつもいつも、構ってくれなかったじゃない!」 「宇野は仕事の相棒だ、当たり前だろう!」 「てっきりーーーそちらの方かと思っていましたわ」 「何処を如何したらそうなるんだ!」  頬を膨らませた 杏 は宗介に向き直った。 「ねぇ、お茶のひとつも出して下さらないの?」 「ーーーーーー」 「(しつけ)がなっていないわね」 「なにが飲みたいんだ」 「えーーーー如何しよっかなぁ。悩むなぁ」 「相変わらずだな」 「懐かしいでしょ♡」  宗介は既に意味のない甘ったるい語尾に耳を貸さず「ダージリンティーを2つ頼む、ああ、砂糖抜きで」と秘書室に頼んだ。すると1分もしないうちに 杏 は「やっぱり砂糖抜きのアッサムティーが飲みたいな」と(のたも)うた。 「すまないが!砂糖抜きのアッサムティーを追加で!」 「バニラのアイスクリームも」 「バニラのアイスクリームも頼む!」  宗介のこめかみはピクピクと痙攣(けいれん)した。 「ふぅ、美味しい」 「それは良かったですね」 「懐かしい味だわ」 「5年も前なのに良く覚えていますね」  ひとつのテーブルに3客のティーカップ、ガラスの器のアイスクリーム。ソファに並んで座る人数と数が合わない歪で気怠い昼下がり。 「覚えてるわ」 「ちょ、な、なに」  杏 が宗介ににじり寄り、赤い爪先が顎から頬へと妖しく撫でた。 「アフォガートはイタリアのデザート、宗介が新婚旅行で教えてくれたのよ」 「あ、杏、離れなさい」 「甘さ控えめのバニラアイスクリームが好き」 「あ、杏」  ガラスの器に香り高いアッサムティーが注がれバニラアイスが(とろ)け始めた。 杏 はそのまま宗介の胸にしなだれ掛かり白いボディコンシャツなワンピースをその身体に擦りつけた。 「イタリアでは溺れるという意味なのよね」  赤い口紅が近付くその瞬間、宗介は手のひらでそれを押し留めた。手のひらには真っ赤なキスマークがひとつ。 杏 は不敵な笑みを漏らした。 「嫌なの」 「今更、やめてくれ」 「」  ここ数ヶ月お預けを喰らっていた宗介の下半身は悲しいかな形を変えていた。 「こ、これは不可抗力で!」  その時、背後でバサバサとなにかが落ちる音がした。宗介が振り向くとそこには果林が呆然と立っていた。 「か、果林」 「ーーーあ、ごめんなさいお客さまがいらしているなんて」 「果林、違うんだ」 「失礼します!」  床にはApaiser(アペゼ)の来月の企画書類と<たまひよくらぶ>が散乱していた。 「くそっ!」 「あら、スタッフさんに見られちゃった」  廊下を小走りにエレベーターホールでボタンを押す果林の脳裏にはあの言葉が渦を巻いていた。 <イタリアでは溺れるという意味なのよね>  宗介は自分以外の女性にも同じ言葉を(ささや)いていたのか。果林は屋上庭園が広がる7階のボタンを押した。
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