アフォガート

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アフォガート

 石川県金沢市の一等地、金沢駅前に社屋を構える辻崎株式会社の創業者である辻崎 宗八(つじさきそうはち)の流れを汲む辻崎一族が経営を担っていた。現在の代表取締役兼社長は辻崎 宗一郎(つじさきそういちろう)、取締役兼副社長は辻崎 宗介(つじさきそうすけ)(39歳)、宗一郎には佳子(よしこ)、宗介には果林(かりん)(25歳)という伴侶が居る。 「果林♡」 「宗介さん♡」  果林と宗介はお互い離婚歴ありで果林の再婚禁止期間を経たこの秋、2人は晴れて夫婦となった。 「いらっしゃいませ!」  そして辻崎株式会社の2階には社員の福利厚生施設として喫茶軽食を扱うパティスリーがあった。(けやき)の大樹が日陰を作る店の名前は Apaiser(アペゼ)。Apaiserとはフランス語で<癒し>を意味する。 「はぁ、疲れた」 「ここに来るとホッとするわ」 「ほんとそれ!」  (いす)の木製フローリングにヒッコリーの机と椅子、白い土壁に赤茶のレンガは海岸沿いの小径を連想させる落ち着いた空間だ。そして特注の窓ガラスからは心地よい陽射しが差し込み(けやき)やオリーブの枝、オープン記念に植樹されたカリンの木を眺める事が出来た。 「いやぁ、果林ちゃん林檎の美味しい季節になったね」 「タルトタタン(りんごケーキ)、焼き上がったところです」 「おっ、じゃぁ頂こうかな」  パティスリーに果林の笑顔が咲き誇る。果林はApaiserのオーナー兼パティシエール、1度来店した社員や役員の顔とオーダーした品を記憶するという特技を持っていた。よって来店者はその接遇に感激しApaiserの常連客となった。 「果林さん!先月の売り上げを超えましたよ!」 「これから寒い季節になると甘いメニューが沢山出るからね!大変だと思うけれど、仕込みお願いね!」 「任せて下さい!」  本来ならば果林が仕込みを行うのだが諸事情により厨房に入ることが出来ない。 14:00  毎日この時間になると(けやき)の樹を見上げるテーブルに1人の男性が現れる。オーダーは程よい甘さのバニラアイスに香り立つアッサムティーを滴らしたアフォガート。 「いらっしゃいませ」 「果林、元気そうだな」 「朝、お会いしましたが」 「もう4時間も会っていない」 「ご注文は」 「アフォガートで」 「アッサムティーで宜しいですか」 「もうそんな事分かってるく•せ•に」 「副社長、Apaiser(みせ)でそれは止めて下さい」  アフォガートはイタリアでという。宗介は新妻の沼に溺れていた。 「おまたせいたしました」 「果林、そんな重いものを持って大丈夫なのか」 「重いものーーーグラス1個ですが」 「悪阻(つわり)は大丈夫か」 「はい厨房はスタッフに任せてありますので問題ありません」  果林が厨房に入れない理由は砂糖を煮詰めるカラメルの匂いに吐き気を催すからだった。なだらかなサロンエプロンの下には妊娠2ヶ月の胎児が宿っていた。  宗介は副社長であるにも関わらず「福利厚生現場の視察だ」「利益損失についての確認だ」と何かしらの理由をつけてはApaiser(アペゼ)前のオープンテラスを右往左往して店内を覗き見ていた。 「あっ!」 「ああ、失敬」 「いえ、大丈夫でしたか?お召し物は濡れませんでしたか?」 「いや、大丈夫。果林ちゃんは大丈夫?」 「はい!」  総務部長の腕が果林の背中(臀部付近)に偶然触れようものなら宗介は観葉植物の陰から飛び出しその腕を捻り上げたい衝動に駆られた。 (ーーーーおのれ、給与減額)  その様子を呆れた顔で見ているのは宗介の同期であるApaiser(アペゼ)企画部長の宇野(うの)だった。宇野は書類を丸めると宗介の後頭部を2度叩いた。 「まぁーた来てんの」 「悪いか」 「悪いよ、副社長の業務は如何したんだよ」 「午前中に全部片付けた」  観葉植物と同化している副社長の姿に宇野は呆れた顔で腕組みをした。 「残念だな、おまえに客だよ」 「そんなアポイントメントは無い!」 「弁護士だよ、果林ちゃんの旦那の件だと」 「!」 「はいはい」  宗介は名残惜しそうにApaiser(アペゼ)を2度、3度と振り返り、宇野に急かされながらエレベーターのボタンを押した。 (あーあ、果林のお仕事終わらないかなーー)  果林の笑顔を思い描きゆるゆるに緩んだ宗介の表情はエレベーターが停止したと同時に厳しい面持ちの副社長へと変化した。 ぽーん  4階の総務課フロアには黒いスーツを着たやや小太りで小柄な弁護士が、草食動物に食い尽くされた前頭の汗をハンカチで拭きながら待っていた。 「この度はご足労頂きまして」 「こちらもご報告が遅くなりまして」 「立ち話もなんですから」  2人は総務課会議室の扉を開けた。 「さて、杉野 恵美(すぎのえみ)さんの件ですが」  杉野恵美とは果林の元夫の不倫相手で果林に対し精神的苦痛を与えたとして慰謝料が請求されていた。 「杉野恵美さんに関しては家庭裁判所での話し合いで慰謝料200万円という事になりました」 「ちっ、少ねぇな」 「血?」 「いや、なんでもありません」  宗介には裏の顔がある。以前、慰謝料請求の話し合いの場で果林の元夫の顔をゴキブリに見立て革靴で踏み踏みする刑に処した。 「杉野恵美さんは慰謝料を請求されましたので裁判所は支払い能力に欠けると200万円を言い渡した様です」 「杉野恵美は離婚したのか」 「三行半(みくだりはん)を突き付けられた様ですね」 「ザマァ」 「様?」 「いや、なんでもありません」  弁護士は指先を舌で舐めるとファイルを数枚捲った。 「さて、木古内 和寿(きこないかずとし)氏ならびに木古内 菊代(きこないきくよ)さんに対しては慰謝料と器物損壊合計800万円+無銭飲食代69万円が請求されました」 木古内和寿は果林の元夫、菊代は元姑である。 「で、支払われたのか」 「副社長のご指示通り和寿氏の家屋、家財、菊代さんも同じく家屋、家財、全て抵当に入れました。まぁ、実質退去ですね。菊代さんは市内有数の一等地に土地をお持ちでしたからそちらも手放して頂きました」  和寿の手元に残ったのはパチンコで負けた借金300万円だけだった。 「はーはははははは!はーーーーっはははは!」 「ふ、副社長?」 「あ、申し訳ない。背中が痒くて」 「はぁ」  一瞬、素が出そうになった宗介は笑いをグッと堪え和寿の果林に対する付き纏いの件について尋ねた。それに関しては警察に被害届出済みで、以降、和寿が果林に接触した際は逮捕起訴されると言った。 「ありがとう、助かった」 「いえ、お役に立てて何よりです、それではこれで失礼致します」  弁護士が総務課会議室の扉を閉めると宗介が再び背中が痒いと奇声を発し始めた。 「はーはははははは!はーーーーっはははは!」  これで果林の離婚問題は一件落着、平穏な日々が訪れると思われた。
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