相合傘

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相合傘

 ぽつぽつ、ぽつぽつ。  エレベーターを降り、会社の自動ドアを抜けてまず目に入ったのは、どんよりと重たい色の空。そして、そこから小さく落ちている雨粒だった。僕は息を吐いて、右手の鞄の中を探る。予想通り、折りたたみ傘は入っていなかった。一昨日の帰りに使って、マンションのベランダで干して、そのまま放置してしまっているはずだ。ああ、もっと几帳面な性格だったら、傘が乾いたタイミングで、また鞄の中にしまっておいたのにな。と、小さく心の中で後悔しながら、僕は立ち止まったまま手を空にかざす。  ぽつぽつ、ぽつぽつ。  雨の程度はたいしたことは無い。このくらいなら、早足で駅に向かえばそんなに濡れないだろう。けど……。   「伊藤、帰んないの?」 「っ!」    背後から声をかけられ、僕はびくりと肩を震わせて振り返った。声の主は、同期の田中だった。黒いリュックを背負った彼は、僕のことを不思議そうに眺めている。   「俺より先にフロア出たのに、何を突っ立ってんだよ」 「……お疲れ」    僕はなんとなく曖昧に笑った。傘が無いから帰れない、なんて正直に言うのはなんだか格好悪い。適当に「忘れ物をした」とかなんとか言って誤魔化そう。そして、中に戻って雨が止むのを待とう。そう思ったけど、それよりも先に田中は僕に言った。   「もしかして、傘を忘れたのか?」 「……まぁ、そんなとこ」    仕方なく僕は頷いた。  田中は空を見上げながら言う。   「このくらいなら、濡れてもたいしたこと無いだろ?」 「そうだね……」 「天気予報だと、これから先の時間はもっと降るって話だから、その前に帰った方が良いんじゃないか?」 「あ、うん……」    でもなぁ……。  僕はちらりと自分のスーツを見る。  このスーツは、ボーナスで買ったばかりのお気に入りなのだ。だから、少しでも汚れてほしくない。たとえ、小さな雨粒であっても、だ。  なかなか歩みを進めようとしない僕に痺れを切らしたのか、田中はふう、と息を吐いて左手で持っていたビニール傘を広げた。そして、僕に向かって視線を送る。   「ほら、入れよ」 「……え?」 「早くしないと置いて行くぞ。新品スーツの伊藤君?」 「あ、え、ちょっと!」    どうしてスーツが新しいものだって分かったんだ……!?  そう疑問に思ったが、僕がそのことを訊ねる時間を与えること無く、田中はさっさと会社を後にするべく歩き出した。僕はそれに置いて行かれないように、急いで田中の背中を追って、少し大きな彼のビニール傘の中に滑り込んだ。   「……」 「……」    ここから駅まで、歩いて十分くらい。その距離を、僕たちはなんとなく無言で歩いていた。思えば、田中とはそんなに仲が良いと言える関係ではない。仕事中に、仕事の話はするけれど、仕事終わりに飲みに行ったりプライベートで会ったりはしたことが無い。  話題……楽しい、話題……。  傘に入れてもらっているという申し訳なさから、僕は必死で話題を探そうと頭を捻る。けど、気の利いた言葉は何も口から出てこない。どうしたら良いだろう、と悩んでいた僕の目に、ふと「本日よりオープン」と書かれた看板が飛び込んできた。僕は思い切ってそれを指差す。   「あの店、今日がオープンだって!」 「店?」  田中が立ち止まったので、僕も立ち止まる。   「傘のお礼に何か奢るよ! その……あんまり高いのは勘弁だけどさ、夕飯の定食くらいなら……」 「定食、ね」    田中はふっと笑って、その店を指差した。そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。   「ご注文後から焼き上げるスイートパンケーキのお店、だってさ」 「え? パンケーキ!?」 「看板の下に書いてある」 「嘘!?」    僕は看板を確認する。確かに、そこには田中が口にした通りの文字が書かれていた。僕は絶句する。まさか、パンケーキの店だったなんて夢にも思わなかった。ああ、僕がもっと几帳面だったら、ちゃんと看板を最後まで読んだのに……!  肩を落とす僕に、田中は軽い声で言った。   「伊藤は甘いもん好き?」 「え?」 「洋菓子か和菓子なら、どっち派?」    甘いものはそんなに食べない。けど、強いて言うなら……。   「和菓子、かな。田舎のおばあちゃんの家の近くに和菓子屋さんがあって、そこのお饅頭が美味しいんだ」 「へぇ……おばあさんは元気なのか?」 「あ、うん。最近は顔を見せられてないけど、年賀状のやり取りは毎年してるんだ」 「良い孫だな」    和菓子派ならあの店はパスだな、と言って田中は歩き出す。僕もそれに続いた。  ビニール越しに空を見上げると、もうほとんど雨は降っていなかった。このくらいなら良いかな、と僕は傘から出ようとした。だが、すぐに田中に戻るように促される。   「濡れたら風邪を引くぞ」 「え、でも、もう降ってないよ? ここまで入れてくれてありがとう」 「駄目だ。まだ降ってる」    そう言って、田中は空いている手で僕の肩を引っ張って傘の中に戻した。   「それに、スーツが痛むぞ?」 「あ、うん……」 「伊藤は電車だよな? なら、駅まで送る」 「あれ? 田中は電車じゃないの?」 「こないだ引っ越した。この近所に」    初耳だった。まぁ、プライベートの付き合いが無いから当然だけど。  会社の近くに住めたら良いな。けど、急な呼び出しとかありそうで嫌だな……そんなことを思いながら、僕は田中に言う。少しだけ緊張みたいな心の重みが消えて、自然と言葉が口から出た。   「田中は洋菓子と和菓子なら、どっちが好きなの?」 「俺は、ヨーグルト」 「ヨーグルト?」 「そう。果物が入ってるやつ」    ヨーグルトって、どこの国のものだっけ。いや、そもそもお菓子なのか?  僕は考えることをやめて話題を変えた。   「そういえば、僕のスーツが新しいって良く分かったね」 「……」    田中は何も答えなかった。  え、なんで?  僕、変なことを訊いちゃった?   「田中……?」 「コンビニ、寄って良い?」 「え?」    田中が指差す方を見ると、僕がいつも昼食のパンを買っているコンビニがあった。ということは、駅まではあと三分くらいで着く。  空を見ると、雨はもう上がっていた。周りを見渡すと、ほとんどの人が傘を畳んでいる。   「雨、上がったね。入れてくれて助かったよ。本当にありがとう」    礼を言う僕の肩を、田中は軽くつついた。   「感謝してるなら、コンビニでなんか奢ってよ? 弁当とか」 「え? まぁ、オーケーです」    何もお礼をしないというのも気が引けるので、僕たちはコンビニに入った。店の自動ドアのすぐ近くにビニール傘がたくさん並んでいる。これからもっと降るという田中の言葉を思い出して買って帰ろうかな、と思った。  店内は空いていた。客は、お弁当を選んでいるスーツ姿の人と、コピー機をいじっている学生っぽい人、それから僕たちだけ。朝はもっと混んでいるけど、夜はこんなにがらがらなのかな。レジが空いていてその点は良いな、と思いながら僕は店内を進む田中の背中を追った。彼は、お弁当のコーナーには行かずに、スイーツコーナーに向かった。   「饅頭は無いな。売り切れか? なぁ、どら焼きは食べられるか?」 「え? 誰が?」 「お前以外に居る?」    田中は笑う。   「食える? 食えない?」 「えっと、食べられるけど……」 「じゃあ、決まり」    何故だか田中は、どら焼きをひとつカゴに入れた。それから、桃が入ったヨーグルトをふたつカゴに放り入れる。それから僕の目を見て訊いてきた。   「他に何か要るもんある?」 「え、待って。お弁当は? 僕が奢るんだよね?」    僕の言葉に、田中は「うーん」と視線を泳がせた。   「……思い出したんだけどさ、このコンビニのポイント集めてるんだよね。だからやっぱり自分で払うわ」 「ま、待ってよ。それじゃお礼が出来ないから……ポイントカードだけ田中が出して、会計は僕がすれば良いんじゃないかな?」 「いや……」 「お弁当、なんでも良いよ? あ、これ新商品だって! とんかつの……」    僕が身を屈めてそのお弁当を見ていたその時、店の外でドン! と音がした。雷だ。僕は咄嗟に外を見た。すると、さっきまで上がっていた雨が嘘のように復活して、ざあざあと強い雨がコンビニのガラスを叩いている。   「ええ……また降ってきちゃったよ」    電車のことが心配になった僕は、スーツのポケットからスマートフォンを取り出して運行情報を見た。今のところ、遅れは無い。けど、今の雷は心配だ。雨も強いし、もしかしたら運転見合わせになるかも……。   「伊藤の家、遠いの?」 「えっと、ここから五駅」 「歩きは無理っぽいな」 「うう……電車、大丈夫だと良いけど……」 「今の雷は微妙だな」    また、ドン! と雷が鳴った。停電する前に会計を済ませようということになり、追加でとんかつ弁当をふたつカゴに入れた田中はさっさとレジに向かう。そして、僕が財布を出す前に、キャッシュレス決済で手早く会計を済ませてしまった。   「田中、その……」 「とりあえず、俺の家行くぞ」 「は、え?」 「このコンビニの裏のマンションだから、ほら!」 「え、ちょっと!」    僕は田中に手を引かれ、コンビニの裏にあるマンションに向かった。雨宿り、させてくれるということなのだろうか。なんだか迷惑ばかりかけて申し訳ない……。  同じ傘に入ったまま、田中はマンションのエントランスに着くまで僕の手を離さなかった。やっと屋根のある場所にたどり着いた僕たちは、同時にふうと息を吐く。   「田中、ありがとう。本当に今日は助かった……」 「良いよ、このくらい」    傘の水滴をはらいながら、田中が言う。   「雷ヤバいから、エレベーターは止めた方が良いかもな。三階まで階段大丈夫か?」 「もちろん、平気!」    田中はこのマンションの三階に住んでいるのか。僕は左手で握っているコンビニのビニール袋をちらりと見た。運動不足が心配だけど、このくらいの荷物ならエレベーターに乗らなくたって大丈夫だ。  それなら良いけど、と頷いた田中の背中を追って、僕たちは階段を上って田中の部屋に向かった。田中は慣れた様子で鍵をリュックから取り出して扉を開ける。他人の部屋にお邪魔する機会が少ない僕は、ちょっとだけ、どきどきしながらそのドアをくぐった。   「お邪魔します……」    田中が電気をつける。室内は、がらんとしていた。生活に必要なものが最低限置いてあるって感じ。家具が黒で統一されているから、そう見えるのかもしれない。とにかく、おしゃれだ。なんだか田中っぽい、と感想を漏らすのは失礼だろうか。   「適当に座ってて。テレビ、つけても良いから」 「ありがとう」    僕はテーブルの上にビニール袋を置いて、長いソファーの端に腰掛けた。テレビをつけるのは止めておいた。  窓が閉まっているのに、激しい雨音が聞こえる。本当に、雨宿りをさせてくれた田中には感謝しかない。スマートフォンで確認すると、やっぱり僕が乗ろうとしていた電車は止まっていた。   「着替える?」 「へ?」    いつの間にかスエット姿になっていた田中が、僕にすっと何かを差し出してきた。それは、新品みたいに綺麗に畳まれたスエットだった。たぶん、田中が着ているのと色違い。僕は首を横に振った。   「そんな、そこまでお世話になるわけには」 「でも、この雨は明日の朝まで降るって、アプリが言ってたぞ」 「ええ……」 「泊まって良いからさ、着替えろよ。スーツじゃ肩凝るだろ?」 「でも……」 「あ、泊まるならシャワー浴びれば良い。ほら、そこが浴室だから使えって」 「……ありがとう、ございます」    僕は田中に甘えることにして、スエットを受け取り、スーツの上着を脱いだ。そして、ネクタイを外そうと首元を緩め……ようとしたら、田中にぐいっと手首を掴まれた。   「ちょ、ここで脱ぐなって!」 「へ? あ、いや、上着とネクタイだけだよ? さすがに、他のは脱がないよ?」 「そ、それでも駄目だ! 簡単に男の前で無防備になるな!」    田中は何を言っているのだろう。男同士なんだから、そんなに気にしなくても良いと思うけど……けど、ここは田中の部屋だ。素直にその言葉に従おう。   「ごめん、気を抜きすぎた。くつろぎすぎだよね。ごめんなさい」 「いや、そういう意味じゃなくてさ……」    田中は気まずそうに頭を掻く。   「……例えばさ、気になる相手と密室に居てさ、その人が急に服を脱ぎ出したら戸惑うだろ? つまり、そういう状況で……って、何を言ってるんだろうな、俺……」 「……え?」    変な例え話だと思った。  それじゃあ、まるで田中が僕のことを気になってるみたいじゃないか……あ、そうか。僕は普段から頼りないから、田中はいつも気にしてくれているのかもしれない。だから、そういう例え話になっちゃったんだ!  そう思った僕は素直に謝罪すると、田中は「そうじゃない」と首を振った。   「……伊藤って、鈍いよな」 「え?」 「もう、なんて言うか……それがまた良いんだけどさ……」 「田中?」 「じゃあ、こう言えば伝わる?」    田中は僕の肩に手を置いて、ぐっと距離を詰めた。   「俺は、好きな奴以外を、部屋に上げたりしない」  え?  どういうこと?  僕は今、田中の部屋に上がっていて、けど、田中は好きな人以外を部屋に上げないってことは……?  え、ええっ!?   「田中、僕のことが好きなの?」    口から飛び出した僕の声は裏返っていた。だって、びっくりする。こんな展開、びっくりする!  僕の言葉に、田中は少しだけ俯いた。   「……引く? 男にそういう目で見られるって、嫌だろ?」 「え……」 「入社式の時から、俺はお前を見てた。一目惚れ。いつか、近付きたいって思ってたけど、勇気が無くてできなかった。だから……今日はチャンスだと思った。距離を縮める絶好の機会だって」 「……」 「けど、やっぱり嫌な奴だよな、俺って。困ってる伊藤に近寄って、親切ぶって家に上げてさ……ごめん。タクシー呼ぶから帰ってくれ。こんな奴のそばに居たら……」 「た、田中は悪い奴なんかじゃないよ!」    僕の言葉に田中は目を丸くした。僕は続ける。   「そりゃ、急にそんなことを言われたら驚くけど……僕だって、好きな人が困ってる状況だったらそれを利用すると思う。その……上手く言えないけど、僕に田中がしてくれたことは、ぜんぶ優しかったし……えっと、つまり……」    僕は田中の手を取る。   「い、嫌じゃなかったから、大丈夫です……?」    自分でも何を言っているのか分からなかったけど、僕が伝えたかったことはどうにか田中に伝わったらしい。田中は、少しだけ表情を崩した。   「……嫌じゃないってことは、チャンスがあるということですか?」 「そ、そうかもしれないです、ね」 「そうですか……」  お互い、何故か敬語でぎこちなく会話をする。この空気に耐えきれなくなった僕は、スエットを手に浴室に向かおうとした。だが、途端に田中が僕の肩を掴む。   「どうするつもりだ?」 「え? 僕はシャワーを……」 「馬鹿! そんなことして俺に襲われたらどうするんだよ!?」 「ええっ!?」    そんな危ないことを田中はしないと思う。けど、僕を見る田中の目はどこか熱い。ああ、もしかしたら田中は心の中で何かと戦っているのかもしれないなぁ、なんて呑気なことを思った。   「……じゃあ、お弁当でも食べる? シャワーの問題は後で考えようよ」 「あ、ああ……」    ふたりでソファーに腰掛けて、ビニール袋からお弁当を取り出す。同じ数だけ入った割り箸も。そういえば、こうやってコンビニのお弁当を食べるのって、大学時代以来かも。   「いただきます」    手を合わせる僕のことを、田中はじっと見つめていた。その視線に気づいて首を傾げると、田中は何故だか苦笑する。   「伊藤ってさ、のんびりしてて可愛いよな」 「え?」 「いや、俺のこと引かないでくれてありがとうな」    そう言って、田中は僕の髪をくしゃっと撫でた。そして、顔を僕の耳に近づけて低い声で言う。   「ちゃんと惚れさせるから、覚悟しろよ?」 「っ!?」    僕の反応を楽しむように、田中は笑う。さすがに耐えきれなくなった僕は机の上のリモコンを操作してテレビをつけた。画面の中の説明によると、全国的に雨が強くなっているらしい。   「雨が止むまで一緒に居ような」 「……」    僕は何も返せずに、とんかつを口に運んだ。  雨が上がっても、田中が隣に居る未来がぼんやりと浮かんで、どきどきと心臓が高鳴る。晴れた日には傘を持たない空いた手を繋いだりするのかな、なんて、まだ付き合ってもいないのにそんな想像をして、僕は頬を赤くするのだった。
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