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福沢邸
お屋敷が立ち並ぶ閑静な住宅街だった。
夏目は一軒のお屋敷の門前に立っていた。『福沢』という表札が掛かっている。元国立先端物理研究所副所長だった人物だ。四十五歳。四十代で副所長になったとすれば、かなりのエリートだ。ゆくゆくは所長の席を約束されているのに、三年前に退職するなんて、夏目には理解できない。相当な変人に違いない。実際、変人だったらしいが。
夏目は表札の名前を確認してから、インターホンを押す。
「はい、どなたかな」
インターホンから嗄れ声が聞こえた。
「夏目ですが」
「夏目栄一さんだね。ちょっと待ってくれ」
インターホンの声が答えてから暫くすると、声の主が門にやって来た。ぼさぼさの髪、落ちくぼんだ目、こけた頬――映画で見たマッドサイエンティストのような風貌をしている。
「福沢だ。入ってくれ」
と言って、背を向けてさっさと歩いて行く。
夏目は屋敷の敷地に足を入れた。広い庭に建物が二棟建っている。
蔦が絡まった二階建ての洋館とそれに並んで建つガレージのような平屋だ。福沢は平屋に向かって歩いて行く。
「ここが研究棟だ。入ってくれ」
夏目は福沢に続いて研究棟と呼ばれる建物に入った。部屋は学校の教室ほどの広さがあった。
片側の壁にくっつけられた棚には、電子部品や工具類が入ったコンテナボックスが並んでいる。部屋の中程には大きな作業台が置かれていて、パソコンが二台とランドセルのような物が載っていた。
「そこに座ってくれ」
福沢は応接セットのソファーを示した。夏目が座ると、埃が舞い上がった。正面の椅子に福沢も座る。埃が舞い上がったけれど、福沢に気にする様子はない。
「私の研究は時間旅行だ」
福沢が言った。
「時間旅行って、タイムマシンとかに乗って行くやつですか」
「そうだ。私は長い間時間旅行の可能性を追求してきた。時間旅行が可能だと分かったのが十年前。それからずっとタイムマシンの実用化に取り組んできた。そして、三年前に研究所の仕事を辞めて、本格的にマシンの製作を始めたのだ。つい最近、その努力の甲斐あってマシンは完成した。後はそれが正常に動いて、時間旅行ができるかどうか試すだけだ。それをあんたにやって欲しいんだ」
「俺が過去や未来に行くってことですか」
「そうだ、私が行ってもいいんだが、万が一失敗してこの世界に戻って来れなかったら、タイムマシンの研究を続ける者がいなくなってしまうからな」
夏目は成る程と納得する。ひょっとすると、この世界に戻って来られないかも知れないってことか。どおりで日当が高いわけだ。これはやばい仕事なんじゃないか?
いや、そんなことはない、と夏目は打ち消す。タイムマシンなんてできる訳ない。あれはSFの世界だ。福沢は妄想に取り憑かれているんだ。タイムマシンは動かないのだ。だとすれば、未来や過去に行った振りをして、未来社会や過去の出来事の話を適当に作って話せばいい。何も危険なことはない。楽して金が稼げるのだ。
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