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歩調は酷くゆっくりになっていた。切り出さないといけないのは私の方なのに、どうしても言葉が出てこない。このままでは何も言えずに会社に着いてしまう。私は点滅もしていない信号を敢えて見送った。先輩もまた、それを望んでいたかのように倣う。
いつのまにか雲は吹き流され、夏が戻りかけていた。蝉の声が沈黙を埋め、アスファルトからは湯気が立ち昇っている。私と先輩の額に汗が滲みはじめた。
「先輩が昨日言ったこと。私には理解できないんです」
右に立つ先輩に視線を寄こさないまま、極力平坦に言葉を紡いだ。それは話しかけたと言うよりは独白に近く、先輩は続きを待つべきなのか、返事をするべきなのか迷っているようだった。
そのわずかな時間さえ耐えきれず、肩掛けカバンの紐をきつく握りしめる。
先輩は、私の目をじっと見つめて口を開いた。
「……昨日のことは忘れてほしい」
自分がどんな返答を望んでいたのかはわからない。が、少なくともそれは私にとって思いもしない言葉だった。口元が歪むのが自分でもわかった。
「そんな軽い気持ちで言ったんですか?」
「違う! ただ、俺の気持ちを優先するべきだと」
食い気味に否定した先輩の態度に安堵する。意地悪な言い方をしたなと思った。そんな自分が嫌で心が軋む。
――私は何を言いたかったんだろう。
整理がつかないまま、話していいのだろうか。先輩を非難した私には、一度吐き出した言葉を取り消す権利はない。そう思えば怖い。だけど、堪えられない。胸の奥底に押し込められた感情が、外に出たいと叫んでいる。
意を決し、私は言葉を紡いだ。
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