十七歳、露草

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十七歳、露草

「そんなの、分からないよ」  それだけ呟いて、カーテンをめくって雨の冷たさに触れた。空から絶えず流れる世界の音が、部屋に響いていく。心に穴が空いたけど、それを埋めるのも面倒になった。今は三限目か、ちらと時計を見てそんなことを考える。心が風邪を引いている、それは欠席理由になりますか。  読みかけの本とゴミで溢れた自室を見渡して、唇を噛んで空気を仰いだ。梅雨の酸素はどこか知らない街みたいな青さが滲んでいて、虚しさだけが肥大化していく。大して暑くもないのに、扇風機は弱のまま稼働し続けている。雑音が雨の音と重なって、どうしようもない気持ち悪さが私を苛む。  それだけだ。痛いし辛いしもう嫌だし、疲れたし。感情を吐き出したとて行き場はないし、それが何になるのかも分からない。誰も助けてくれないし、助けてもらわなくてもいい。知らないうちに流れていた涙を拭うと、雨の匂いがして心が悲鳴をあげた。目蓋が上下するたび、それが繰り返される。 「何してんだ、私」  ふと見えたところにある電子機器に手を伸ばし、パスワードを打ち込んでロックを解除する。Googleを開いて、検索画面を連れてきた。  あ、い。  そう入力すると、一番上の予測変換には哀と表示された。簡単に得られる愛さえも失ったのか、と呆れて他の文字を見つめる。哀、藍、逢。どうして愛がないんだろう。私が前に、自分で殺したからかな。それとも他の誰かが、奪ったからかな。  そういえば、私の名前もアイだった。何事にも中途半端な私には不相応すぎる、深みのある青色。ふと、なめらかなきみの声色で届く「藍」が頭蓋に木霊する。幾度もその笑顔で呼ばれた、大切だったはずの名前。  ねぇ、愛って何だろうね。誰か、教えてくれないかな。憂いが私を包んでいる、抜け出せないから爪を立ててる。どうして記憶の中のきみは、願っても消えてくれないんだろうね。  ◇  好きな人がいた。どうしようもなく好きな人だった。からんころんと音を立てながら笑い、遥か先を駆けていくような人だった。 「涼音」  意識せずとも口を出た声が、駅の喧騒に混ざり合って溶ける。確かに好きだったはずのその人は、改札の向こう、背の高い男の人と手を繋いだまま消えていった。 「え、」  違う高校の制服を着たきみがこぼす、あの微笑み。それはもうとっくに、私だけのものではなくなっていたようだ。鈍器で殴られたような衝撃。蜃気楼と一緒になって滲んでいく目の前の風景を、私は立ち尽くして見ていた。  何人もの人が私を避けるように進んでいく。ハッとして腕時計に目を落とすと、乗る予定だった電車が、たった今発車していたことに気付く。  「……っ」  通学鞄から携帯を取り出して、ホームボタンを強く押す。表示されたのは「七月十七日」という文字。これが私の命日になるんだと、本気で思った。  気が付けば、私はホームにいた。4番線。いつものホームじゃない。下り電車。反対方向へ向かう電車が発つところ。どうしてだか分からない。分かりたくもない。数分後に1号車がやってくるはずの空間で、一歩も動けず線路を見ていた。  地方都市とはいえ、ホームドアはない。駅員さんもいない。ここはあまり大きな駅ではない。いける、大丈夫だ、そう思った。  ―――まもなく、4番線に、原ノ町行きの電車が到着します。  そんな思案をしていると、凄まじいスピードで電車が向かってきた。駅の軽快な音楽が、警報みたいに頭上でけたたましく鳴り響く。  心の準備?そんなのできてないよ。心臓が痛い。つま先が震える。風でスカートがめくれ、白い素足がさらされる。別に、次の電車を待ってもいい。電車なんて何本も来る。でも、それなのに、今やってしまわないと、永遠に死ねない気がした。 「……っ、あぁ、あ」  電車は、もうすぐそこに、やってきていた。  無理だった。私にはできなかった。勇気がなかった。  そして私は無意識に、電車の中に足を踏み入れていた。  分からなかった。私が今生きているということが。息を吸ってここに存在しているという事実が。分からない、分からない。飛び乗った反対電車の中、冷房に冷やされた前髪が肌にくっつく。もちろんこの後のことなんて、何ひとつ考えていなかった。改札は定期で通っているけれど、反対方向だから使えるはずもない。幸い少しお金はあるから、向こうで全部精算すればいいかな。あ、帰りのお金。っていうか無断欠席なんてしたら、生徒指導にかかって、内申に響くんじゃなかったっけ。あぁいや、そんなのどうでもいい。元々終わらせるつもりだったんだ。今更そんな現実的なこと考えてどうするの。片道切符で、もっとロックに行こうよ。せっかくの、最期の旅なんだから。  百均で買った有線イヤホンを耳に突っ込み、プレイリストをスクロールする。液晶をタップし、メロディが流れるのを待った。数秒ほどあけて、しんみりとした音色が耳に届く。私の好きな、無機質な声色。  あーあ。せっかく、せっかく終わらせようと思ったのに。私には最初から、そんなの無理だったんだ。  ふと車窓に目をやると、知らない街の景色が流れ続けていた。空は青くて、いい夏の日だった。絵に描いたような快晴の、向日葵の咲く夏の日。 「……っ」  もう、全部全部失格だ。私には生きる資格も、涼音を愛す資格もない。私が生きる上で、涼音は神様だったのだ。  そんなの忘れちゃえばいいのに、いつだって脳裏にちらつく涼しげな音。愛したとて、所詮叶わない恋だ。意味がない。虚しすぎる。あんなにあんなに頑張って、もがいて苦しんで、異性の恋人だって作ったのに。私はどうしてこんな風に生まれてきちゃったんだろう。どうして同性が好きなんだろう。同性愛なんて今の時代、許されないことでもなんでもない。差別されるわけじゃない。知ってる、そんなの知ってる。でも虚しいのだ。叶わないから。叶うはずがないから。私が好きなのは、涼音以外の誰でもないのに。  どうして私は、こんなにも愛に飢えているんだろう。笑っちゃう。笑っちゃうね、ほんと。馬鹿みたい。私って本当に馬鹿だ。  大好きな曲が刺さらなくなっちゃって、純白な歌詞が血まみれになったみたいだった。ギターと重なって愛を唄う対象の「きみ」が、僕の心の中にもしっかりと存在したはずなのに。抜け落ちた心の真ん中、穴が空いたみたいだ。埋まる日なんてやって来るはずがなくて、だから涙がこぼれるんだと思った。当たり前のことだった。  勝田、勝田。  大洗鹿島線、阿字ヶ浦行きの電車は1番線からの発車になります―――。    あ、海。  海だ。そうだ、海に行こう。  唐突にそう思った。最期に一目、もう一度海を見たい。別に、今日が最期にならなかったとしても、それでも。とにかく海が見たい、潮風に吹かれたい。  海が見える小さな駅で、ただ青を眺めていたい人生だった。  こんな時でさえ、キリキリと痛む頭の片隅に浮かぶのは、依然鈴音の笑顔だ。頭痛薬を水なしで飲み込み、食道に滑り込ませる。鈍い痛みが伝うけれど、そんなのどうってことはなかった。  これは下り電車。まだまだ、終点までは長い。きっと、海の見られる駅がある。そこに行こう。そんなに遠くはないはずだ。  劈くような音を響かせながら、車体が知らない駅に滑り込む。それでもまだ、心は激しく揺れ動いていた。イヤホンから伝う音を消費しながら、幾度も瞬きを繰り返す。見たこともない景色、見たこともない駅名。次々と流れていくそれを、惰性の心で眺め続けた。  電車は確実に、北へ、北へと進んでいた。絶え間なく、窓から降り注ぐ日差し。しばらくすると、青い水平線の見える駅が視界に入った。  あ  海だ。   ―――すえつぎ、末続。  導かれるようにして、私は電車を降りていた。刹那、吹き抜ける夏の匂い。思い描いていた駅、そのまんまの風景が目の前に広がっていた。  いつの間にか私は、一時間半以上も電車に揺られていたらしい。  スマホの電源を落とし、鞄の中に放り込む。鬱陶しい髪の毛を耳にかけ、ブラウスの袖を捲る。駅前の坂道を駆けていき、夏の空気を肺に取り込んだ。今日の日の陽炎が、灰色のアスファルトに揺れている。  線路をくぐると、真っ白な堤防が目に入った。       知らない街の、知らない海岸。  胸が高鳴る。短いスカートをさらに折って、波打つ砂浜へと進んでいく。途中でローファーが汚れているのに気が付いて、強引に砂浜に放る。学校指定の靴下も投げ捨てて、まっさらの素足で砂に触れる。くすぐったい。足の裏についた砂が海岸から辺りを見渡すと、誰の影もなくただひとり。遠くに羽ばたくウミネコの群れだけが、制服の私を見下ろしていた。  腕を空に大きく伸ばすと、心なしか心臓の鼓動が速くなっていた。首筋に滲む僅かな汗を拭い、髪をポニーテールに束ねる。  声を漏らしながら、波の方へ、波の方へと歩んでいく。冷たい水が足首にかかる。満ち引きを繰り返す波を見計らい、何度も何度も水の中に入っていく。膝のあたりまで浸かると、その度、少しずつ世界から消えていけるような気がした。汚れた自分の存在が、重なる波の音と紛れて薄れていく。  夏服のスカートを濡らしながら奥まで行くと、何かが足の爪に当たる。痛っ、そう思いながらも気には留めず、漕ぐようにして水の中を進む。溺れたみたいな感覚が心臓を掴んで離さなくて、それがただただ気持ちよかった。  ソーダ水に浮く、いちめんの青の中。炭酸を抜いたばっかりの空が、光と共に瞳に映る。耽る妄想と、いつかの心。  気が付くと、頬に水が伝っていた。乾燥した唇をなぞりつつ、一旦砂浜の方へと戻る。  すると、遠くにひとつ、ガラス瓶が転がっているのを見つけた。駆け寄って確認すると、案の定ラムネ瓶だった。漂流して長い間放置されていたのであろう瓶は、色褪せていて、それでも確かに綺麗だった。夏の切なさをあつめて、全部飽和させたような色。太陽を浴びて光る水色のガラス、まさしく涼音の色だった。  あぁ、ここまできて、またあんたは。そう思ってしまった自分に対して、何度目かも分からない嫌悪を抱く。なんなんだ、私は。勝手に被害者ぶって、涼音は悪者じゃないのに。涼音は大切な人だった。私の大事な大事な、初恋の人。だった、はず、だ、よね。 「あぁ、どうして、忘れられないの」  反射する日光が瓶の中を照らし、虹色の光線をつくる。あの時のままの、底抜けに明るい君の面影。映る幻に、私は苛々した。心の底に沈めて殺したかった想いが、また浮き彫りにされてしまった。私を形づくっているのは、あの夏の記憶だけだ。あの夏の、ラムネ色のかがやき。  あぁ、君なんだよ、涼音。  塗りつぶされた灰色の心を引き摺るようにして、淡い色の残る瓶を拾う。私はそれを叩きつけるようにして、遠くへと投げた。透過できなかった夏の思い出と一緒に、ありったけの力を込めて。瓶が地面に当たる。衝動で亀裂が入る。ガラスの破片が、辺りに飛び散っていく。堤防の白に溢れた、幾つもの透明。  あぁ、あっ、あああ、あああああああああああ  思わず叫んだ喉が痛くて、焼けたようにヒリヒリした。ガラスを拾い集めようと触れた人差し指は、途端真っ赤な血に塗れた。どうしてだか、流れる血液を見ている間、私の心は凪いでいた。 「あっ」    欠片を必死に集めていると、堤防の上に、ガラスの球体が転がっていることに気が付く。ラムネ瓶の中に入っているのはビー玉じゃなくて、エー玉だ。未完成なビー玉じゃない、完成しきったエー玉。AはBよりも至高の、夏の結晶。  切れた方とは反対の手で、私はそれを拾う。つるつるとした感触を確かめ、空に掲げて光に透かす。  涼音、私は君が好きなんだよ。  エー玉をじっと見つめていると、涼音がそこにいる気がしてならなかった。はやく、はやく海へ。自分の頭でも追い付けない衝動に駆られ、私は走った。さっきよりも遠く深い、青の中へと。  胸のあたりまで海水に浸かる。重く苦しい水圧に押しつぶされそうになりながら、私はエー玉を海に投げた。あまりに夏だった。透明に映る景色が綺麗で、涙腺に追い打ちをかける。構わず、前へと進む。大きな波がやって来て、勢いよく顔に飛沫がかかる。でも、それでいい。泣いているのか濡れているのか、見分けがつかないから。生きているのか死んでいるのか、その境目さえも曖昧になっていくから。  だから、だからさ。 「すずね、ありがと」  放り投げたエー玉は波間に消え、跡形もなく沈んでいった。ただ、私の心に、ラムネ色の傷痕が残る。苦しくてもがいて波に飲み込まれそうで、視界が真っ青で。それでも私にとっては、これこそが青春なんだ。ラムネなんか、もう私には必要ない。水中を漂う私の手には、何も握られていなくて、でもきっと大丈夫だと、そう強く思う。  青春の傷口は、どこまでも青かった。
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