第一章 恋の淵

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第一章 恋の淵

夏の暑さの厳しい日が続く。 昨日は夕立のおかげで少しばかり過ごしやすかったが、今日は打って変わってからっとした天気で、熱気が煩わしい。 「なぁ九条、今日川に泳ぎに行かないか。」 昼休みになり、同級生の多聞が服を扇ぎながら気怠げに声をかけた。 窓の席の俺は、ちょうど真下で打ち水をしている教師達をぼんやりと見やりながら適当に返事をした。 「うーん。着替えがねえよ。」 「そんなこと!濡れた体なんてあっという間に渇くさ!何てったってこの暑さだぜ?3分も経てば服なんて着れるようになるね。」 …確かに。 きっと川の水は気持ち良いだろう。 ただ、その後の眠気が心配だった。 きっと夜は心地の良い疲労感で、何もせずに寝てしまうだろう。 明日に提出予定の課題もある。 期待の眼差しで俺の顔を見つめてくるコイツに何て返事をしようかと迷っていると、教室の前の扉ががらりと開いた。 そっちに目をやると、なんとも背の低い男の子が立っている。 立花 千影。 その華奢な体つきと少し薄汚れた制服が原因で、よく揶揄われている。 たまに見かねて助け舟を出してやったりもするが、その度にじろりと睨まれるだけだった。 この時間に登校したのは、どうやら体調が優れないかららしかった。 顔色は薄っすらと青いし、歩き方もどこか頼りない。 夏の暑さにやられでもしたのだろう、と思った。 「立花、具合悪そうだなぁ。」 隣で多聞が耳打ちしてきた。 「どうせなら午後も休んじまえば良かったのに。俺だったら家から出ないね。」 それに特に何も返さず、席に着く立花を盗み見た。 今や彼に声をかける奴は滅多にいない。 愛想笑いの一つでもすれば良いと思うのだが、今まで散々揶揄われてきた弊害なのだろうか…彼の笑った顔を見たことがなかった。 (せっかく面は整ってるのに、勿体ねぇ) 少し長めの髪のせいで目立たないが、くりっとした目にさらさらの髪。 それから柔らかそうな肌は、立花特有の個性だと思う。 今日に限らず、たまに考える時がある。 彼は、何で嫌な言葉を投げられても言い返さないのか。 何で辛そうな体を押して登校するのか。 何で誰にも助けを求めようとしないのか。 (…まぁ、そんな事考えたところで立花を助けたいって訳でもないんだよな。面倒事は嫌だし。) 結局のところ、俺も皆んなと同類なだけなのだ。
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