83人が本棚に入れています
本棚に追加
不意に後ろから名前を呼ばれた。思わず足を止めその場で振り返ると、そこには若葉の姿があった。彼女は俺を見つけるなり嬉しそうに笑って駆け寄ってくる。その笑顔はまるで飼い主を見つけた子犬のようで、尻尾があれば大きく揺れているところだろうとぼんやり思ったが、同時に周囲の視線を集めている気がしていたたまれない気持ちになる。
一緒に参考書を選びに行った翌日から、若葉は教室内でも俺によく話しかけてくるようになった。とはいえ、帰宅部の俺と美術部に属している若葉ではそもそも自由な時間が合わないため機会はそれほど多くなかった。
若葉が友人たちとしていたドラマやテレビ、SNSでの話題など、他愛もない会話に適当に相槌を打つといった程度だが、それでも以前よりも会話の数は増えている。
彼女と接するうちにじわじわと込み上げてくる感情の正体に、俺は気付き始めていた。それは言葉にするには難しいもので、とても曖昧で不確かなものだったが、それでも間違いなくその感情は俺の中で芽吹いていた。
けれど、俺はその気持ちにあえて名前を付けることはしなかった。いや、出来なかったと言った方が正しいかもしれない。この気持ちを言葉にして彼女に伝えてしまうと、今の関係が壊れてしまうような気がして、その瞬間を想像するとひどく恐ろしかった。
だから、俺は彼女の話に耳を傾けるだけ。ただ一緒にいるだけ。それだけで十分幸せなのだ。
「おはよ!」
「……おはよう」
登校時に彼女と遭遇することは今までなかった。そのうえ、後ろから追いかけて走ってくるとは思いもしなかったので、俺は少し動揺してしまった。
「あのね! 私、昨日返ってきた定期テスト、世界史の点数ちょっと良くなったんだよ」
少し嬉しそうにそう言った若葉は、相変わらず眩しい笑顔を俺に向けてくる。俺はなんとなく気まずくて目を逸らしてしまったが、それでも彼女は構わず話しかけてくる。
「雪也くんのお陰だよ。世界史で良い点数取れたのって初めてだったから、本当に嬉しい! あの時はありがとう」
最初のコメントを投稿しよう!