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*プロローグ
「……ごちそうさま」
交際歴十年、同棲し始めて八年くらい。これくらいの遍歴になると、こんな風に冷めた感じになるのはお互い様なんだろうか。
席を立ち、リビングのソファへと向かう同居人であり、恋人である彼の背中から視線を外し、ユズは手許のスマホの画面にメッセージアプリを立ち上げる。そこには先日実家の妹から届いたメッセージが表示され、ユズはそれを眺めて小さく、自分だけに聞こえる溜め息をつく。
『お父さん、あと、半年あるかどうかなんだって』
たったそれだけが何を意味しているのか、解らないほどユズだって子どもでも馬鹿でもない。それなのに、このメッセージに対してどう返事をしたらいいか、そしてどう振舞えばいいかがわからない。
――いや、解らないふりをしているんじゃないだろうか。
いますぐにでも取れる行動と、口にすべき言葉、そのすべてはもうわかりきっている。それでもなお現実から目をそらしてしまいたくなるのは、ユズがやっぱりまだあの事に対して彼を、アキを許せていないからだろうか、そう、考えてしまう。
(許す許さないの問題じゃないのは、解っているのに……俺、何でそんな風に思っちゃうんだろう?)
いま考えるべきはそれじゃない。そう、ユズは頭を振って考えを改めようとする。
同じ部屋に寝起きし、同じ皿の料理を分かち合い、時々互いの肌を貪り合うように食べ合う。そんな関係を彼と積み重ねてきたことは、この国の世間ではまだ“異端”とされてしまう。たとえ十年の月日を積み重ねていても、ユズの父の前では無意味な時間とされてしまうように。
そんな父に、いまさらどんな顔をして自分は会いに行けばいいんだろう。その逢瀬が最後になるかもしれない――そう思えば思うほど、ユズは、アキとの間に生じている齟齬が気になってしょうがなくなる。
「ユズ、今日先に俺風呂入っていい?」
「あ、うん、どうぞ」
アキの言葉にユズは弱く微笑んで返し、アキがパジャマ代わりのジャージと下着を取りに寝室へ入り、そして風呂へ向かう。その姿を目で追いながら、ユズはまた溜め息をついた。
(いままでこんな目でアキくんのことを見たことなかったのに……俺、どうかしているのかな……)
何気ない会話をし、何の障りもなく微笑み合う。でもその裏にどんな想いがあるのか……そう、ユズは最近つい勘ぐってしまう。人懐っこい、変わりのないアキの笑顔のはずなのに、その裏を疑ってしまう。
「個人の自由だから、僕が笹井さんのことをどう想おうと自由、でもあるよね?」
ふいに過ぎるあの幼い顔立ちの彼の言葉が蘇り、父の一件とは別の方角からユズの胸を締め付ける。
長く連れ添ってきて夫婦同然と思ってきたアキとの関係、しかしそれを真正面から認めてくれない父と、父へのやるせなくてはっきりさせられないユズの想いを、見透かすように鋭く突いてくるあの彼の言葉。
「俺とアキくんの関係って、なんなんだろう……ただ十年一緒にいた、ってだけになるのかな……」
ユズの頼りない小さな言葉は、アキがつけっぱなしにしているテレビの音声に紛れ、誰にも聞き取られずに消えていった。
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