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*7 普段通りの陰に潜むもの
ネギ入りの卵焼き、焼きシャケ、キュウリの浅漬け、ミニトマト、それから昨夜の残りの唐揚げ。
「で、シソふりかけのご飯……っと。アキくーん、お弁当出来たよー」
ダイニングテーブルで詰め終えた弁当を包みながら、ユズは洗面所の方へ声をかける。開け放たれたそこではアキが鏡を見ながらヒゲを剃っている最中だ。
「んあーい、ありがとー」
「大丈夫? 間に合う?」
「うん、もう終わる……よっし、と」
身支度を整えたアキは、今日は作業着ではなくスーツを着ている。髪もいつもの無造作ヘアという名の適当なスタイリングではなく、それなりに整えられている。
「大切な研修があるのにギリギリまで寝てるなんて……あ、ほら、ネクタイ曲がってる」
アキの襟元を整えるユズと、そうされているアキの姿はまさに夫婦のようだ。それを、特にアキは意識したのか、嬉しそうに頬をゆるめてユズを見つめ、ユズもその眼差しを受けて小さく微笑む。
「ありがと、ユズ。じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。研修頑張ってね」
ユズの見送りの言葉に、アキは手渡された弁当入りのトートバックを手に満面の笑みでうなずき、スッと身をかがめてユズの頬に唇で触れる。
じゃあね、と改めて手を振ってアキは出ていき、静かになったダイニングでユズは触れられた頬を撫でていた。その顔は、嬉しそうというよりも、少し複雑に曇っている。
アキと珍しくケンカらしいケンカをして気まずくなり、それから和解としてのセックスをしたのが三日前だ。
あれからふたりの仲は一見以前のように、ひょっとすると以前よりも甘く濃密なものになり、ふたりの日常が穏やかに過ぎている――ように見えた。
アキが出ていったダイニングを片付け、ユズはひとり遅い朝食を手早く済ませ、洗濯や掃除に取り掛かる。家事を終えたあとは今日の分の執筆の仕事が待っている。
手や体を動かし、ユズは無心に目の前の家事をこなしていく。洗濯機に洗濯を放り込み、掃除機で掃除をしている間、ユズは何も考えないようにしていた。
あの日以来、アキの態度は以前のように甘いものになり、弁当に文句も言わなくなった。指輪も、アキの意思に任せているので、つけているのかどうかはユズにはわからない。
いつも通りの朝を迎えているようにしか見えないのだが、何かが食い違っている気もする。それを薄々感じながら、ユズは努めて見ないふりをしようと、無心になろうとしているのだ。
「……これで良いわけがないんだよなぁ」
家事を終えて仕事部屋で執筆を始めて二時間。ユズは早々に原稿につまずいていた。資料や設定をメモしたノートを広げ、表現がしっくりいかない文章の表示された画面を眺めて溜め息をつく。
数行書き込み、読み返しては消し、また書いては消す。それをもう小一時間ほど続けている。どの言葉もしっくりとこない。
「あー、もうダメだなぁ……」
声にしてイスに寄りかかりながら、ふと、ユズはアキと出会った頃のことを思い出す。まだ恋人にもなっていなかった頃、ユズの作る夕食目当てで――その実はユズの気分転換のために――この部屋に通い詰めていたアキのことを。
いまより少し若くて、人懐っこいのに肝心なところで竦んでしまうアキのヘタレなところと、それでいていざとなるとユズのために一歩踏み出してくれるところ。そして何より、いつもその手にはユズを悦ばせてホッとさせる温かなものを持っていたこと。
(アキくんは、変わってない。変わったのは、俺の方なのかな……ずっと好きでいるはずなのに……)
嫌いになったわけでは決してない。肌はあれ以来重ねていないが一緒に寝ているし、今朝だってキスをされて嬉しく思えた。
だけど、どうしてもあのセックスをした夜以降、ユズの心の奥には言えないままの言葉がじっと居座っている。それが少々、いや、かなり重苦しい。
別れの危機さえ感じたあの夜に比べれば、現状は全くその気配もない。それなのに、ぼんやりと何かがアキとの間に隔たれている気がする。アキの態度は何も変わっていないというのに。
「俺、なんかヘンだよね、やっぱ……」
仕事が進まないもきっとアキとのことが気になっているからだろう。そう思い至ったユズは、パソコン画面を閉じ、財布とスマホ、それから家の鍵をサコッシュに入れて散歩に出ることにした。
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