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*8 宣告と、いつもの夕餉
気分転換の散歩だったはずなのに、余計に気分が悪くなってしまった。ユズは悶々とした気持ちのまま地獄坂を昇り詰め、三階の自宅までを一気に昇り詰める。そのせいか、自室のドアの前につく頃には肩で息をしていた。
「運動……しなきゃな……」
そうでなくとも、自分より一回り近く若い涼真に敵う点が自分にはないのに。アキが若いだけで相手を選ぶわけではないとは思いつつも、それでも先程の揺さぶりに平然としていられるほどユズは自分の人間ができているとは思っていない。
大人しく家事でもやって家にいればよかった……と、ユズが思いながら玄関の鍵を開けた時、ポケットにしまっていたスマホが震えた。メッセージではなく電話がかかってきているらしく、慌てて画面を開き、ユズは更に焦りを覚える。
「もしもし? どうしたの?」
『ああ、柚樹? いま、電話いいかしら?』
「いいけど……」
電話の相手は実家の母。滅多に電話をかけてこない相手からの声に、ユズは知らず知らずのうちに緊張をする。
それでも気構えをしていないと装うように、「どうかしたの?」と、改めて言うと、母は少しの間を置いてこう切り出した。
『あのね、お父さんのことなんだけど……』
父の名を出され、記憶の片隅に追いやっていた数か月前の妹からのメッセージを思い出す。父親が倒れていたこと、入院したことを、いまさらに。
いやな予感がする。退院したと言う話であればメッセージを入れればいいだけであることを、あえていま電話で伝える、ということは、良くない知らせである可能性が高いからだ。
父がどうしたのだろうか、と問い直そうかどうか迷っている間に、母は更に言葉を重ねる。
『膵臓にステージ四のがんが見つかったの……もって、半年あればいい方だって……』
「え……半年? それって、今年中ってこと?」
『そう、なるわね……』
父とユズは、お世辞にも仲がいい父と息子ではない。古い考え方をしていて頑固な父は、ユズがアキと同棲していることも、作家であること自体も快く思っていないからだ。前回の帰省でアキを伴って挨拶に向かった際もその件で父と衝突し、それ以降ほとんど顔を合わせていない。
一応、最後に顔を合わせた際に父が歩み寄るようなそぶりは見せてくれたものの、それで双方和解できているわけではない。向こうはけじめをつけたつもりなのだろうが、ユズとしてはまだわだかまりが完全に払しょくされたとは言い難いことが大きい。
アキの実家の家族のように、手放しで受け入れろとは言わない。それでも、自分が積み上げてきた作家としての実績は汲んで欲しいし、アキとの関係だって――
「……まあ、でも、アキくんとのことだって、どうなるかわかんないよな……」
母との電話を終えてリビングのソファに沈み込むように座ったユズは、背もたれに身を預けて天井を見上げながら呟いた。
アキとの関係は一見良好に見える。だが、あれ以来ふたりはセックスをしていない。アキから求めるように触れられることはあるが、疲れていることを口実にユズが拒んでいるのだ。
セックスがないから不仲であると言うわけではないだろうが、法的に関係性を認められていないふたりである以上、互いへの想いを証明するものが、肌を合わせることでの熱しかないように思えてならない。指輪もあると言っても、それであればとっくに前回の帰省の時に証明できているはずだ。
父が懸念しているのは、きっとこういう事なんだろうな……と、いまになってユズの肩にのしかかってくる。
アキとユズには、気持ちが相手から乖離しそうな時、踏み止まれるような社会的な枠組みがない。好いた惚れたですぐに付いたり離れたりする、そう、父は言いたいのかもしれない。つまり、ふたりの関係性は儚く危うく、信用がならない、と。
自分たちは大丈夫、ずっと愛し合っていける――そう、思い続けてきた。いまでもそう思っているはずだ。
だけど、どうしてこんなにいま、胸を張れないのだろう。
「個人の自由だから、僕が笹井さんのことをどう想おうと自由、でもあるよね?」
天井をぼんやり見上げるユズの脳内に、涼真の先ほどの宣戦布告とも言える言葉が蘇り、口中に苦いものが広がる。
涼真がアキを、少なからず好ましいと思っているのは確かに自由だ。
アキはユズだけを好きだと先日言ってくれた。
それぞれは離れて別々の考えとして成り立っているはずなのに、なぜかユズの中ではそれら同士が向き合おうとしている。正確には、涼真の意見がアキの言葉を呑み込もうとしているように見えるのだ。
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