*1 積み重ねても揺らぎそうな心

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*1 積み重ねても揺らぎそうな心

 深夜二時過ぎ。不意にノックする音が聞こえ、ユズはそれまでにらみつけるように見ていたノートパソコンの画面から顔をあげ、振り返る。  振り返ると同時に部屋の引き戸が開き、ひょっこりと明るい茶髪の、同じ三十代半ばの人懐っこそうな笑みをした彼がこちらを覗き込んでいた。ユズと同じ部屋で暮らしている笹井陽人(ささいあきと)、三十六歳。日によく焼けた肌が健康的で、やせっぽちで万年真っ白なユズとは真逆な雰囲気だ。 「アキくん、まだ起きてたの?」 「だって阿藤柚樹(あとうゆうき)先生が新作を書いてるから、楽しみ過ぎて起きちゃったよ。はい、差し入れでーす」  そう言いながら、アキはユズにライトブルーのマグカップを差し出す。中身はコーヒーではなくココアで、マシュマロが浮いている。 「どう? 進んでる?」 「まあね、ぼちぼちってところ」  アキはユズが深夜に仕事を――ようやく最近仕事が増えてきた作家業の仕事だ――していると、コーヒーではなく、こうして甘くて温かい飲み物を差し入れてくれる。そして自分も一緒に味わってくれるので、必然的にユズも執筆の休憩を取ることになるのだ。「これ以上ユズが痩せたら消えちゃうよ」と言いながら、時には軽食も差し入れる。  ユズの新作が楽しみだと言う彼とは、とあるイベントライブ会場で行き合って知り合ったのがきっかけではあったのだけれど、実は元々ユズの作品のファンだった、ということから関係が急展開して、いまに至っている。第一のファンが恋人になって、もはや家族同然だ。  人と人の出逢いとか巡り合わせって妙で面白いよな、とアキとの馴れ初めを振り返るたびに思う。  しばらくふたりであたたかいココアを飲んでいると、不意にアキがユズの少しこけた頬に触れた。その顔は、少しだけ心配そうに曇っている。ユズは執筆にかかりきりになると、ただでさえ痩せぎすなのに、一層やつれたようになるので、アキは心配しているのだろう。  しかしアキと暮らし始めてこうして気遣ってもらえるようになってから、ユズは肌艶も髪の艶さえも良くなった気がしている。現に、チョコレート色の髪はきれいなキューティクルの輪を成している。 「締切り、いつまで?」 「んー……来週の木曜の午後イチ。あと原稿用紙で十枚ちょっとかな」 「うわぁ、結構あるね」 「そうなんだよねぇ……先週ちょっと休みすぎちゃったから」  先週末、久々に友達カップルに誘われて郊外までドライブに行ったので、そのしわ寄せがいま来ているのだ。ドライブ自体はいい気分転換にはなったけれど、しわ寄せは自業自得だろう。  そう、ユズが苦笑して言うと、アキはますます心配そうな顔をする。 「気分転換だって大事な仕事だよ、ユズ。作家は身体が資本なんだから」 「うん、ありがとう。アキくんだって明日も仕事でしょう?」  もう寝たら? と、促したつもりでユズは言ったのだけれど、アキは子どものように唇を尖らせ、俯き加減で上目遣いをしながらユズを見ながら独り言つ。 「恋人が仕事してるのに、のん気に寝てなんかいられないよ……」  それはユズの体を心配してなのか、単純に自分がダブルベッドに独りで寂しいからなのか。どちらなのかを問うのは野暮な気がして、ユズはくすりと苦笑してそっと彼を抱き寄せ、その耳元に囁く。 「なるべく早めに切り上げてベッド行くから、待っててよ」  今夜中にこの約束が果たせるかはわからないし、きっとアキだって真に受けているわけではないだろう。何せ、付き合い始めて十年になり、一緒に暮らし始めて八年になるのだから。  それでもアキは嬉しそうに微笑み返し、そっとユズの頬に口付ける。 「うん、じゃあ、ベッドあっためて待ってる」 「秀吉みたいだね」  ユズがくすくす笑うと、アキは子どものような無邪気な顔をしてうなずき、もう一度、今度は唇にキスをしてきた。 「無理しないでね、ユズ」  ファンとしてではなく、恋人としての顔をしてそう言われ、ユズは小さくうなずく。いつだって彼はユズのことを一番に考えていてくれるのを知っているからだ。  そうしてユズは、空になったカップを手に部屋を出ていくアキと手を振り合い、再び執筆へと戻る。ほんの二十分もない会話と暖かな飲み物を飲みかわした時間が、根を詰めていたユズの神経をいい具合に和らげてくれていた。
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