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*10-2
周りの音が聞こえなくなるほどの沈黙を破ったのは、「――いい加減にしろよ、涼真」と、いままで聞いたことがないほど低く鋭いアキの声だった。
驚いてユズと涼真が思わずアキの方を振り向くと、それまで二人のやり取りを見守っていたアキが明らかに怒りの感情に満ちた目をこちらに――涼真に向けていたのだ。
眼差しを投げられた涼真はわずかに怯みながらも、「僕は、あくまで笹井さんのためを思って……」と、弁解をしようと口を開きかけたが、地面に倒れ込んだままこちらを見上げている涼真の前にしゃがみ込んだアキは、その続きを言わせるような雰囲気ではなかった。
アキが、怒っている――普段のアキはユズよりも感情表現が豊かではあるが、それは決して怒気を含んだものではない。穏やかでやさしい、彼らしいものばかりだ。
それがいま、カケラもない。
「確かに、俺とユズは付き合いがそこそこ長いよ。お互いのことを空気みたいに思ってると言えばそうかもしれない。でも、だからってユズが俺のことをツールみたいに扱ってるなんて一度も思ったことはない」
「で、でも! この前指輪のこと訊いたら、笹井さん、“気まぐれなのか、なんなのか解んないんだ”って言ってたじゃないですか!」
「確かにそうは言ったけれど、だからと言って、俺がユズのことを理解することを放棄したわけじゃない。ましてや、俺がユズから愛されていないなんてひと言も言ってないだろ」
勝手なことを付け加えるな、と言わんばかりのアキの言葉に、涼真はカッと顔を赤らめてうつむいていく。アキはスッと立ち上がって涼真にも手を差し出したが、彼はその手を取らずに自分で立ち上がった。
「……僕は、笹井さんが好きだなって思うけど、ユズさんには絶対的に敵わない。だから、絶対になんか粗があるはずだって思ったんだけど……」
粗さがしをして、ふたりの隙をつき、あわよくば奪おうとでも持っていたのだろうか。そこまでの強い感情があったにしても、涼真がユズに向けた言葉は許されるものではないだろう。
だけどユズはあえてそこを責めるのではなく、もっと奥にある感情を言葉にして差し出す。
「君がアキくんを好きなのは、自由だよ。でも……アキくんは、俺のパートナーで、俺と共に生きていく人だから。君には、渡せない。そうすることを俺は許さないよ」
ユズの言葉に、涼真はうな垂れる。その目には涙がにじんでいるようにも見えたが、あえてアキはそれにも涼真の頭にも触れなかった。
「涼真は、折角入ってきてくれた大切な後輩だから、これで辞めたりしないでくれよ?」
「……はい、たぶん」
たぶんか、とアキが苦笑すると、涼真は弱く笑い、「すみませんでした」と、頭を下げて背を向けて去って行った。とぼとぼと力なく歩いて行く後ろ姿にユズは若干の傷みを覚えたが、こうしないと自分がその姿だったかもしれない。そう思いながら、ユズはゆるゆると息を吐いてその場にしゃがみ込む。
「ユズ?! 大丈夫?」
ついさっきまであんなにカッコよく守っていてくれたのに、もういつものヘタレなアキだ。その変わりようがおかしくてユズが小さく苦笑していると、アキは顔を覗き込み、安堵したように息を吐く。
しゃがみ込んだユズにアキが手を差し伸べ、それを取ってユズが立ち上がる。必然的に見つめ合う形になったふたりは、どちらからともなく唇を重ねる。
「ありがとう、ユズ。俺のこと、信じてくれて」
「俺は別に……俺の方こそ、ひどいことアキくんにしてたよね」
ごめん、と形にならない小さな声で呟くユズの手をアキは握りしめ、ゆるゆると首を横に振る。そんなことないよ、という代わりに頬に触れてくるアキの手は暖かでやさしく、ユズの震えていた心ごと撫でてくれる。その感触が心地よく、力が抜けていく。
――いまなら、言える気がする。
ユズはほどけた心のこわばりを感じながら、意を決してアキの目を見つめてこう告げた。
「アキくん、俺と、父さんに会いに行ってほしいんだ」
ユズの言葉に、アキの目が見開かれる。驚きと喜びの入り混じった問うような眼差しにユズはうなずく。
「父さんはまた俺たちのこと、認めてくれないかもしれない。でも……会えないままでいる方が、ずっと後悔する気がするから、会いに行こうと思う。俺一人では、心細いから、その……」
語尾が消えそうになるユズを、アキは言葉ごと抱きしめて答える。
「もちろん一緒に行くよ、ユズ。俺はユズのパートナーだもの」
背中に回された腕の力強さを感じながら、ユズもまた彼の背に腕を回し、潤んでいく視界の中でうなずく。
「ありがと、アキくん。俺のこと許してくれて」
「そんなことないよ。許す許さないじゃないんだよ、ユズ」
あなたを好きでいてよかった。そう、声にならない言葉を添えながら、ふたりはしばらく抱き合っていた。
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