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雨の欠片
「乞技節は歌合せの名を借りた大湖首と貴族との争いで。今上帝が立ってから六年間貴族は大湖首に色々な面で苦汁を飲まされてきました。まあ、今上帝の後ろ盾である大湖首に表立って反抗はできずにいるのですが……風雅の会までも大湖首にしてやられるのも……主の、主を重用している弥郡氏方には面白くないのでしょう」
薄暮の雨の都の大通を歩きながら、鼬黒は淡々と話す。
「弥郡氏と言えば先々帝の弟宮が婿入りした家で……大湖首と争って失脚された柴宮様に代わって、今、貴族をまとめていらっしゃる、あの家?」
「そうです。大湖首と張り合おうとしておられます」
「では、私は弥郡氏の歌人として参内するので?」
「そうなるでしょうね。不満ですか?」
鼬黒の言葉に、馬富はなんと答えていいかわからなかった。いきなりのいきなりすぎる指名だし、出身一族・砂川氏に報告する隙もない。
一応は武家の砂川氏、武家を統括する大湖首に反する誘いを受けるのは、問題だ。
だが、高位貴族の命令に逆らえるかと言ったら、そんな力は馬富にはなく。言われるがまま白露宗家の屋敷に向かっている。と思っていた。だが……。
「鼬黒殿? ここは!!」
案内されたのは、都の中でも五指に入ろうかという、立派な屋敷だった。
「弥郡氏の邸宅の一つです。主はここにいるので」
しれっと鼬黒は言い、そして、裏門に馬富を連れていった。そこで案内が松明を掲げた下男に代わり、馬富はその者について庭に回る。
「待っていた。門部……名は……」
「砂川承門部馬富と」
庭を見下ろす回廊に座っていた仲麻呂は馬富が名乗るのと同時に、御簾がかかっている部屋の方を振り返った。御簾の向こうは明かりが灯っており、その光が人影を浮かび上がらせている。影が問うた。
「砂川氏か。馬富とやら、いますぐ詠えるか?」
その影は当然の如く名乗らなかった。
「はっ」
馬富は承諾しか返事を求められていないのがわかっていた。その相手が誰か確かめるのすら許されないのも。
シトシトと降り続いていた雨が小降りになる。
月の涙か 天の川の雫
光落つ 雨下の欠片に 吾子出会う
「ふむ。まあまあの腕だな。侍が誰から歌を習った?」
影だけの男が、そう尋ねてきた。今まで誰からも問われなかった問い。それを聞いた途端に、馬富の脳裏に記憶が蘇った。
「也名、也名。この本をお前にやろう。一千回、一万回、百万回読んでお前のものにしなさい。そうすればお前は蘆野國一の歌人になれるだろう。お前にはその才がある」
死の床で伯父はそう言って幼い馬富に一冊の歌集を渡してきた。伯父は白露流とは流派は違うが有名な歌人で、その母方の伯父が存命であれば馬富も侍にはならず、歌人として生きていただろう。
だが伯父は早くに亡くなり、馬富は貴族の母の家から武家の父の元に引き取られ、幼い頃の夢は潰えた。
そのことを、なぜか馬富は誰にも言いたくなかった。
「独学でございます」
頭を下げ、馬富はそう返した。影の男は少し笑ったようだ。
「そうか、独学か。仲麻呂、しばらくその男を衛門府から借り受けろ。乞技節までに磨き上げておけ」
「はっ」
それだけだった。それだけで馬富の人生の流れは大きく変わった。変えられてしまった。
「馬富。明日の朝、わしの屋敷に来い」
馬富にはそれを受け入れるしか選択肢はなかった。
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