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圭衣子
「圭衣子! 圭衣子、聞いてくれ! 俺、乞技節にでられるぞ!!」
馬富が恋人の妓女・圭衣子の店に着いた時、上がっていた雨が再び降り出していた。板葺の屋根に大粒の雨が当たって、バラバラと音を立てている。薄明かりの部屋の中で聞くその音はどこか不吉だった。それでも。
「本当かい? 也名! え……うーん。なんでかは聞かないよ。でもよかったじゃないか。あんたずっと歌を作っていたものねぇ。殿上人に歌を披露するんだね。あんたの歌はきっと認められるよ!!」
圭衣子は自分のことのように喜んでくれた。
「そうだと……そうだと、いいが……」
「まぁ、殿上人だってあんたと同じ人なんだ。怖がらないことさね」
圭衣子はかなり有名な妓女だ。彼女は宮の節祭の踊り手としても出仕しているし、貴族が主な客だった。
なぜ、しがない門番の馬富と情を交わしているのか馬富自身いまだに不思議に思っている。
圭衣子は馬富より余裕で笑っていた。こっちに来いと手招きし彼の頭を膝に乗せる。
「あんたの歌は、この私を籠絡するぐらいなんだ。だから、自信を持ちなよ」
可憐な笑顔で覗き込まれた馬富は、顔を顰める。
「だが、無骨な侍が作った無骨な歌が貴族に受けるのか?」
「もう! 受けるから選ばれたんだろ!」
男の眉間をつっついて圭衣子が笑った。
「ほら、今日は泊まるよね。難しい事は考えっこなし!」
そのつもりで恋人の所に来たのだ。砂川の屋敷には帰りたくなかった。帰ったとしても父に弁明するだけの言葉はない。一方的に責められるのは嫌だった。
次の日から白露宗家で馬富の特訓は始まった。とは言っても、馬富の良さを殺さないように、そして、その良さをさらに磨き上げるようにとなされた仲麻呂の指導を受けるのは楽しかった。
馬富は本当は少し警戒していたのだ。仲麻呂は侍の自分を下に見ているのではないかと。けれど、仲麻呂は馬富の歌を認めていた。認めてさらに良いものにしようと、手を貸してくれた。それは、幼い頃、伯父に受けた教育と相通じるものがあり、馬富は少しずつ自信がついてきた。
自分の歌には評価されるだけのものはあったんだ。一生自分と……圭衣子だけのものだと思っていた。でも、他人に示しても、受け入れてもらえる。それが嬉しかった。
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