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褒美すらなく
「よくやった、砂川氏! これで大湖首も思い知ったであろう!!」
弥郡氏の邸宅で、仲麻呂は上機嫌だった。雨の降る庭にいる馬富はそれに乗る気もしなかった。最後の歌を詠んだのが馬富だと大湖首が知ったら……宴の最後の大湖首の顔を見なければよかったと馬富は思っていた。
「そうだな、その者はよくやった。何か褒美を……」
御簾の向こうはやはり光に溢れていた。馬富は今後の自分に対する扱いを読み取ろうとして、影の男の言葉と声に集中する。だが……いきなり、ドタドタと騒がしい足音が屋敷に響いた。
「何事だ! 慈晃!!」
影の男の苛立った声がした。廊下の角から姿を表したのは若い公達。その後ろに圭衣子の姿を認め馬富はギョッとした。公達は御簾を怒りに任せて引き千切る。
「父上! 素性のわからない者に褒美を取らせるとは正気ですか!! 此度の節祭には私の選んだ歌人を採用してくださいと申したはずです! それを私を無視して! このような何処の馬の骨とも知れぬ男を選んだ挙句! 褒美まで!!」
姿を現した影の男は息子の狼藉に顔を歪めた。
「落ち着け、慈晃。この者はきちんと役目を、」
「これが落ち着いていられますか! 父上は私の顔に泥を塗ったのですぞ!!」
「だったら、お前の連れてきた歌人なら帝に認められたとでも言うのか? お前の歌人が大湖首の歌人より劣っていたのは明白なのにか!!」
「父上は私の評判を考えて下さらなかったのですか!! 父上のせいで明日から我々は門番にも劣る歌しか作れないと言われるのですよ!!」
親子の言い合いが続く。困った事にはその場にいた誰も、その親子喧嘩を止める資格がなかった。
「とにかく、その者は追放してください。褒美など門番には相応しくない!」
「ですが、若様。その門番の働きで大湖首様に勝てたのでしょう?」
圭衣子が諌めようとして言った。けれど、そう彼女が言った瞬間の公達の顔は宴の最後の大湖首の顔と並ぶほど、恐ろしかった。
「圭衣子。其方、門番ごときに味方するというのか?」
「慈晃、圭衣子殿に対する礼儀を」
「父上は黙っていてください。圭衣子の一晩を買ったのは私です」
その言葉に、馬富は心が冷えるのを感じた。
「買った妓女でも、その扱いは、」
「そんなお説教はいりません。とりあえず、その門番は追放して下さい。行くぞ、圭衣子」
そう公達は言い捨てると、圭衣子の手を引っ張って歩き去った。
圭衣子が、すまないと言うような視線を向けてきたのが、馬富には痛かった。
その後、強くなった雨に急かされるように馬富は丁重に放り出された。弥郡氏の跡取りの不興を買った以上、その程度の扱いで済んだのに感謝するしかない。
馬富は次の日からまた門番にもどった。あれから、圭衣子の店にも顔を出していない。
ただ、毎日違う長霖雨の雨音に耳を澄ませて、歌が浮かぶのを待っていた。そのはずだった。
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