山門

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 激しい雨だった。都会のビルに囲まれた中、男は店の軒先か何処かで雨宿りでもしようと、持っていた上着を被りながら辺りを見回した。 「うーん、時間帯の悪いオフィス街だと、店一つ開いてやしないな・・。」 仕方無く男は公園に生えている大木の下で休むかと、そう考えた。幸い、見慣れた大きな公園が現れたが、如何せん、雨宿り出来るほどの大きな木は生えていなかった。男はそのまま公園の奥にまで進んでいった。 「へー。こんな所があったのか。」 いつもはベンチに腰掛けて、缶コーヒーを飲みながら仕事をサボるのが日課だったが、そんなに奥深くまでは探索したことが無かった。 「ザーッ。」 雨脚は次第に強さを増していった。もうびしょ濡れになるのを覚悟した男だったが、ふと見ると、小高い丘の先に、鬱蒼と木が生い茂る場所を男は見つけた。さらに進むと、その奥に、かつては朱で塗られたであろう大きな山門が聳え立っていた。 「おわっ。こりゃデカいな!。」 男は瓦屋根から水が滴り落ちるのを見上げながら、その山門の大きさに圧倒されていた。そして、 「おっと、いけな・・。」 男はずぶ濡れになる直前に、山門の軒下に入ると、被っていた上着を山門から突き出ている大きな楔(くさび)の所に引っ掛けた。 「ふーっ。こりゃ止みそうに無いな。」 男は強くなった雨脚と、滴り落ちる雨だれの音を聞きながら、今はこうするより他は無いと、そう悟った。そんな風に、男はしばらくの間、雨だれを見つめながら呆然としていた。と、その時、 「ん?。」 男は山門の反対側に、何か視線を感じた。見ると、白いワンピースを着た髪の長い女性が一人佇みながら、此方を伺っていた。恐らくは男より先に此処へ来て雨宿りをしていたのだろう、肩口以外は然程濡れている様子も無かった。頬から顎にかけてのラインがスッと緩やかな曲線を描いていた。知らない間に男は雨だれから、女性の頬の辺りに目のやり場を変えていた。 「どうも。」 微かに聞こえるかどうか解らない声で、女は男に会釈した。それを見て我に返った男は、女に見とれていた気恥ずかしさからか、ペコリと頭を下げた。何か起きてくれても良さそうだけど、ちょっと気まずいかなと、男はその後の展開は無いものと思っていたが、 「あの、もしよかったら・・。」 そういいながら、女は近づいて来て、持っていたハンカチを差し出した。 「あ、すいません。」 男は礼をいいながらそれをうけとると、額と首筋の濡れた部分を拭った。男はそれを女に返そうとしたが、静かに首を横に振りながら、 「どうぞ。」 と、そのハンカチを男にあげた。まあ、見知らぬ男が使ったハンカチを受け取るのも、何かおかしいだろうと、男はそう思いながら、 「すいません。じゃあ。」 と、そのハンカチを受け取った。男は再び雨だれに目を遣りながら、雨が止むのを待ったが、雨脚が弱まる気配は一向に無かった。と同時に、女からハンカチをもらいながらも、何のお返しも出来ないことを、急に申し訳無く思った。そして、 「あの・・、お話、いいですか?。」 男は何気に女に声をかけた。 「ええ。」 女は特に驚いた様子も無く、共に雨宿りでもしながら時を過ごそうといわんばかりに、自然な返事を返した。 「ずっと個々に?。」 「いえ、少し前から・・。」 「この辺りの方ですか?。」 「あ、いえ。何気に公園を散策してたら、雲行きが怪しくなってきたので、雨宿り出来そうな所を探してたら、此処に辿り着いたんです。」 「そうでしたか。ボクもです。」 少しの時間差はあったが、二人は単なる偶然で、この場所に辿り着いたのだった。 「それにしても、大きな門ですね。こんな都会の中に、こんな門があるなんて・・。」 女も門の存在を知らなかったらしく、その佇まいに圧倒されているようだった。 「ホントにね。ボクもこんな門がこんな所にあるなんて、ちっとも知らなかったです。この先にお堂か何か、あるのかな・・。」 二人は何時しか、門の存在について興味を抱きだした。これほどの巨大な木造建築なら、観光名所になっていても不思議は無いぐらいに、荘厳な門だった。しかし、鬱蒼とした木々に囲まれているせいか、その存在に気付いたのは、二人以外に、今は誰もいなかった。 「ザーッ。」 時折、雨音に濃淡のリズムはあったが、それでも止む気配は一向に無かった。そして、男は次の言葉を紡ごうとしたとき、 「あ。」 女が門の柱の辺りに何かを見つけたようだった。女の視線の先を、男も目で追った。すると、其処には鮮やかな緑色をした足の長い虫が一匹止まっていた。 「蟋蟀(きりぎりす)・・ですかね?。」 男は、虫の種類には詳しくなかった。ましてや都会育ち。本物の蟋蟀など、見たことも無かった。 「この子も雨宿りしてるのかな?。何か、ものの本に、同じようなシチュエーションがありましたよね?。」 女は鮮やかな緑色の虫を見つめながら、男にたずねた。 「ああ、あれですね。仕事にあぶれた男が、門の二階で髪の毛をむしっている老婆から衣服を奪い取る・・。」 「そう、それ。」 二人は共に、とある小説の一節を思い出していた。 「あれ、確か、教科書で見たんだよなあ。」 「アタシもです。何であんな不気味な物語を載せるのかって、不思議に思いました。」 「ですよね。陰鬱で不気味な、そんな話でしたね。」 世代は多少違えど、その話は色んな世代に広く読まれていて、それでいながら、その物語が教科書に載せられている真意を、二人とも掴めずにいた。 「趣味は悪いですね。あのお話。」 男は、女が然程文学性を持ち合わせてはいないと思い、そう話した。しかし、 「ええ。でも、それはまだ我々が幼かったからで、其処から時を経て、世の中の色んなものを見てしまうと、ちょっと教訓めいた、そんな風に感じなくも無いです。」 最初の話しぶりとは異なり、女はその物語に、さらなる関心を寄せているようだった。 「教訓・・ですか?。どんな風な?。」 男は、女が発した教訓というワードが妙に気になった。あの物語から学ぶべき点など、男には見出せなかったからだった。 「うーん、何ていうんだろう。やはり、変貌・・かな。どんなに善を貫こうとしても、窮地に追い込まれてしまったら、善悪判断など、浅い部分に過ぎないっていうか。」 女は右手の指を顎の所に添ながら、考えつつ、そう答えた。男もその物語を学んだ後々に、そのような感慨を持たないわけでは無かった。しかし、 「変貌・・かあ。ボクはあの作者が書いたような状況が人間の本質であるとは、思いたくは無かったなあ。確か、彼、相当に優秀な頭脳の持ち主だというのを、何かで読んだことはあります。でも、その優秀さが故に、作品こそシュールで秀逸だったかも知れないけど、結局は自身の人生と世の中との折り合いを上手く付けられずに、自ら命を絶った。確かそうでしたよね。」 男も、かつて思考の末に辿り着いた感慨を、思い出しつつ語った。すると、 「ええ。素晴らしい論理力というか、人が社会にある既存のものでは満足出来ない何かに出会った時、必然の糸に導かれて、そうするより他は無いというような、そういう世界観を紡ぐのが得意な方だったようには見受けられますね。」 女の推察は、幾分、理系の分析眼も伺わせた。感覚的な好き嫌いだけでは無く、その奥にある概念のようなものを、単純明快に語っていた。その言葉に、男は、 「へえ・・。」 関心の溜息を漏らした。人格を窺い知ることより前の姿に、ただただ見とれていただけだったのが、今は、彼女の洞察力に、さらなる関心を寄せていた。しかし、男は彼女の有能さは認めつつも、やはり心の奥底で、彼女が肯定している何かに対して、幾分の抵抗感があった。そして、 「あの、不躾な質問ですが、何かあの物語に賛同出来るような、そんな出来事とか、あったんですか?。」 男は作者の描く世界観の是非より、最早彼女が作者と同じような感慨を持ち合わせて欲しくないと、勝手ながら、そう思い始めていた。男の質問に、女は若干躊躇した様子だったが、 「よく会社なんかで、日頃はそっと本音を語ってくれる仲間がいたとしても、いざ組織の力関係に巻き込まれてしまうと、自分の意見を押し殺して、組織の利益の側に立つ人って、いますよね?。」 「・・あ、確かに。」 「アタシもそんな経験を、幾つもしてきて。そういうのに、ちょっと疲れちゃったんです。」 彼女は、組織がみんなに対して強要する、同調性の価値観に馴染めないでいる人間の一人なんだと、男は初めて気付いた。そして、それは自分とは真逆の、自身の強い意志を持った、ある意味、かつて憧れた人間像でもあった。今の自分はといえば、会社の意に沿うように、特に個を殺しているという意識も抱かないままに、ただ生活の為だけに仕事を漫然とこなしている、そういう人間である。そして今、目の前の女と話すことで、そんな自分の姿を改めて浮き彫りにされたようで、何とも苦々しい感触も、そこはかとなく湧いて来た。しかし、 「あの、具体的に伺って、いいですか?。」 男は女に訪れたであろう、必然の糸の物語を、どうしても聞きたくなった。女は静かに頷きながら、意を決したように話し始めた。 「今から数年前のことです。とある会社で、アタシは理不尽な上司の下、来る日も来る日も、無茶な仕事を従順にこなしていました。他の仲間達も、同じように、上辺では嫌な顔一つせずに仕事をこなしていました。でも、ある時、一人の仲間が、こんな無謀な仕事のさせ方はおかしいって、そういい始めたんです。」 女は物静かに語ってはいたが、次第に険しい表情と鋭い目つきに変わっていった。その様子を、男は傍らで生唾を飲みながら聞いていた。 「昼間はみんな、平然とした顔で淡々と仕事をこなしました。そして、仕事が終わると、みんな自然と集まって、居酒屋とかで上司の悪口をいうようになりました。其処までなら普通のことですが、話は其処で終わらなかった。仲間の何人かが、今のままの状況では、けっして良くはならない。何か行動を起こす必要があると、そういい出しました。そして、ついには、何らかの直接行動を起こすより他は無いと、そういう空気になっていったんです。」 彼女は当時の様子を思い出しながら、何か因縁を孕んだ目つきへと変わっていった。 「で、どうなったんです?。」 男は、先を急いだ。自身にそのようなドラマで見るような造反劇の経験が無かったせいもあったが、何より、こんな嫋やかな女性から、このような話が聞けるなどとは、夢にも思わなかったからだった。 「アタシはその行動に始めは反対でしたが、彼女たちの気持ちは、最早変えがたいものになっていた。しかし、これといった効果的な方法論を見出せずにいたんです。どうしても感情が先走った方法にいってしまう。そういう職場ではよくあることです。ですが、アタシは理系出身だったのもあって、物事を感情よりは、論理で考える癖が付いていました。なので、彼女たちの気持ちがどうしても揺るがないと分かると、次第にアタシも協力するようになりました。で、まず手始めに、」 「手始めに?。」 「問題行動が、上司の単独の行為なのか、その背景になる上層部や組織のポリシーなのかを、つぶさに観察したんです。そして、組織としてはそのような理不尽なことを社員に強いるような背景があるのでは無く、件の上司にのみ問題があることが解ったんです。なので、」 「なので?。」 「その上司だけを、その部署から、あるいはその会社から追い出してしまえば、ことは片付く、そう判断しました。」 ふとした雨宿りで出会った清楚な女性が、実は修羅の門を開く番人のような、男はそんな風に女を見つめていた。 「で、その上司に、どのような・・?。」 男はさらに先を急いだ。 「組織の側で天秤にかけられたら、その会社に必要なのは、理不尽でもタスクを達成して会社に利益をもたらす上司の方が、アタシ達よりは必要と判断される恐れがある。現にアタシ達は、彼の支持の元で部署として業績を上げていましたから。しかし、それが理不尽であり、その状態が続けば、部下が従わずに辞めてしまうということを、会社の側が理解してくれなければ、アタシ達をお払い箱にして、新たな人員を配置すればすむこと。つまりは使い捨てにされるということです。」 女性の推論と計画性に、男はますます引き込まれていった。 「正攻法では、アタシ達に勝ち目は無い。ならば、どうしてもその上司を他所へやる為に、最も端的かつ効果的な方法を取るしか無いと、そう考えました。」 女の目つきは、何時しか鋭く、そして鈍い光を放っていた。 「で、何を?。」 「要は組織です。上の命令には従わざるを得ない。ならば、その論理を逆手に取ればいい。さらに上を味方に引き入れて、下を変えさせる。単純です。」 女のいう通り、言葉でいうのなら、確かに単純だった。しかし、一体、どうやって?。男はどうしてもその先を知りたくなった。次の言葉を女が紡ぐのを、男は待った。 「こんな話、興味あります?。」 女は、ふと冷静になって、自身が語っている状況を俯瞰ししたようだった。しかし、それとは逆に、男の眼差しは、女の口元に釘付けになってきた。そして、 「うんうん。」 と、小刻みに、そして力強く、男は首を縦に振った。その様子を見て、女は、 「上司のさらに上の人物と、関係を持ったんです。」 女は顔色一つ変えずに、そう答えた。それを聞いて、男は息を呑んだ。どんな過去を背負っていたとしても、女は清楚に振る舞うことが出来るのだと、男は熟々そう思った。しかし、そんなギャップよりも何よりも、男は、その物語の続きが知りたかった。 「幸い、上役は、アタシのいうことをよく聞いてくれました。そして、程なくして、その理不尽な上司は別の理由を付けられて、違う部署に飛ばされました。ミッションは達成されました。ですが・・、」 淡々と語った彼女だったが、突然、寂しげな眼差しに変わっていった。その理由が解らないまま、しかし、やはり先を知りたい男は、彼女の目元よりも口元を見つめた。 「上役が妻子持ちというのが、いけなかったんです。アタシは別に彼の家庭を壊すつもりも、彼を独り占めしたいという気持ちもありませんでした。仲間の為に一肌脱ごうと。別に嫌なことでも無かったし、幸い、上役はアタシ好みのロマンスグレーでした。そのことも、仲間の嫉妬心に火を着けたのかも知れません。結局、上司がいなくなったことよりも、アタシがそのような行動を取ったことを、仲間は誰一人として受け入れられないようでした。そういう状況になったとき、保守的ですからね。みんな・・。」 女の行動は、確かに大胆不敵だった。目の前の白い衣服に身を包んだ物静かな女性が、其処までのことをやってのけようとは、やはり想像すら付かない。しかし、彼女の口から付いて出る物語は、到底嘘には聞こえなかった。 「で、結局は、その会社を去ることに?。」 男は、ハンカチのお礼も出来ていないのに、彼女に一方的に語ってもらうことへの遠慮も、次第に芽生えてきた。しかし、お返し出来るものは何も無い。せめて、自身の心の奥底にある違和感を押し殺してでも、彼女に同調して慰めの言葉でもかけてあげようと、そう思った。しかし、彼女の口から出た言葉は、意外なものだった。 「いえ。会社を去ったのは、彼女たちです。批判的な精神だけ募らせて、それでいて、いざ実行となると、何もしない。そういうことへの苛立ちがアタシの中に少なからずあったのは確かです。でも、自分たちの持つモラルの範囲内にいる人間しか受け入れられないという、そういうスタンスに、アタシは我慢ならなかった。なので、アタシは上役にことの経緯を正直に、全て話したんです。勿論、保身の為ではありません。どうにでもなれという気持ちも幾分はありましたが、でも、筋目。それを通すことが、その時のアタシには必要だった。すると、上役は彼女たちに造反の動きがあったことを重く受け止め、解雇したんです。」 「で、アナタが残った・・と。」 「ええ。彼の論理では、上役の理不尽さは、長い目で見れば、部署を蝕むけど、造反の目は決して許されるものでは無い。そういう判断だったようです。極めて組織論的な判断ですが、上役は組織人にして、取締役の一員でもありました。」 そういうと、彼女はようやく目の力を緩めて、空を見つめた。その時、雨は殆ど止みかけていた。女は再び男を見つめながら、 「アタシの歩んできた道は、修羅・・ですかね?。」 と、そうたずねた。男は随分前から、自身が語らう相手として、この女は到底、自分とは釣り合わないという、そういう惨めな思いに駆られていた。平々凡々と生きてきた自分と、感情の趣くまま、いや、卓越した頭脳と行動力で、自身の人生を切り開きつつ、構築してきた目の前の女。今、自身の発する返事が、今の自身の全てを体現することになる。つまり、今、自分の全身全霊が試されている。しかし、どんなに足掻いても、彼女の歩んできた重みには敵わない。 「あ、あ・・、」 男は口をパクパクしながら、何か言葉を発しなければというジェスチャーをするのが精一杯だった。すると、 「あはは。変なお話聞かせちゃって、御免なさい。」 女は涼しげな笑顔になると、両手を点にかざした。 「さて、雨もすっかり上がったことだし、いきます。」 女はそういうと、雲間から指す夕日に照らされながら、後ろを振り向かずに、手を振りながら山門を離れていった。後に残されたのは、不甲斐ない自分を自戒するしか無い男と、何の種類ともつかない緑色の虫だけだった。雨はすっかり上がって、男と虫にも眩い夕日が差し込んだ。虫はゆっくりと山門の柱を登っていった。そして男は、右手にハンカチを握り締めたまま、何時までも夕日に照らされていた。  随分後のことである。男は会社を辞め、リュック一つ持って旅に出た。絶対的な経験量が足りない。そういうものを補うには、旅に出るしか無い。そう思い立っての決断だった。しかし、男が自信の器を広げるための行為としては、極めてステレオタイプなものだった。海外を渡り歩き、様々な仕事を経験し、風貌も随分と逞しくなっていた。そして、とあるユーラシアの僻地で、男は海を望むテラスで荒々しくパンをスープを貪っていた。刻まれた皺と蓄えた髭面は、異国の地の者とは思えぬほど逞しく見えた。そして、赤ワインをがぶ飲みしながら、男は夕日を見つめつつ、 「やっぱ、あの女にゃ、敵わないな・・。」 そう呟いて、夕日に杯をかざしながら、一人乾杯した。
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