第一章

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第一章

 照明がついていない風呂の中。  水がゴボゴボと音を立てながら跳ねる。  排水溝に繋がる栓が、外れる。  そして、さっきより増して水が跳ねるようになる。  ポチャン、ポチャン! パチャンパチャン!  一回静まる。そして、風呂から腕が伸びる。  だが、その腕はまた水に戻って行った。  なぜか。それは風呂の水がなくなったから。  香織は正文の家に来た。二人はどちらも中三。 香織「結構広いんだね」 正文「今日は両親がいないんだ。同窓会で」 香織「同じ学校だったの?」 正文「うん、高校がね。その高校で恋して、付き合ったって感じ。両思いだったんだって」 香織「へぇ、ロマンチックじゃん」 正文「今は喧嘩しまくりだけどね。今日は帰ってこなくて、明日の朝帰る」  二人の間に沈黙が流れる。だが、口を開いたのは正文だった。 正文「ちょっと聞いてほしいことがあるんだ」 香織「なに?」  そこで、正文は風呂を沸かした。 香織「なんで沸かしてるの?」 正文「いいから」  香織は、正文が何をしているのかわからなかった。  しかし。  十分ほど経つと、アナウンスが流れる。 『お風呂で呼んでいます』  香織はこれを恐ろしく思い、ごくんと唾を飲み込んだ。正文は冷静だった。 正文「これがいつもなんだ。両親も手を焼いてる」 香織「故障じゃない? 修理屋に見て貰えば」 正文「見てもらった。だけどその日からまたこのアナウンス」 香織「そんな……」 正文「で、問題はあともうひとつある」 正文「ちょっと風呂場に来てもらえる?」  香織は少し躊躇した。怖い。風呂場に、何かがいるのではないか。そんなことを考えるだけで、もう夜家には帰れない。正文に泊めてもらおうと思った。 正文「あ、別に何かがいるわけじゃないよ」 香織「わかってる」 正文「じゃあ来て」  二人は風呂場に向かう。照明はついていない。  ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ。  湿気が多いからか、足はペタペタと床にくっつく。  そして、バッと正文は風呂場を開けた。 香織「……え?」  なんと、湯船は空だった。 正文「これもいつも」 香織「なんで?」 正文「わかんないよ俺も。だって風呂の栓が抜けていたらさ、”お風呂の栓を確認してください”ってアナウンスくるよな」 香織「……確かに」 正文「妙なんだよなぁ」   香織はもうこの家から抜け出したい。怖い。逃げたい。 香織「もう、引っ越したら?」 正文「両親もそう言ってる。アパートだし、ローンとか気にしなくていいからって。でもさ、原因があるんだったら解決したいし」 香織「うん……」 正文「怖くなった?」 香織「いや、別に」 正文「まあ怖くもなるよなぁ」  香織はもう何も言い返すことができなくなってしまった。 香織「え」 正文「どうした?」 香織「あそこ」  香織が指差す場所には、うっすらと見える手形があった。  正文は意外にも驚かなかった。 正文「多分昨日の跡だろ」  そう言って、ピシャリと風呂のドアを閉めた。 香織「他の修理屋に言ってみれば?」 正文「でも、これって本当に何が原因なんだろ」 香織「わからないけど、バクか何かじゃん?」 正文「パソコンでもないのに……」  そこで二人は黙り込む。  しかし、あるアナウンスがリビングに響いた。 『お湯張りをします』  顔を見合わせた。 正文「見てみようぜ」 香織「やめようよ……」 正文「ひとりになっちゃうよ?」  香織にとって、それは失神するようなことだ。 香織「……行く」  二人は風呂場を見た。  お湯張りが開始されている。  何が起きているのかわからないまま、二人は帰ろうとしていた。  だが……。 正文「あれ、なんだろ」  香織は目線をたどると、そこには水の泡が盛り上がっていた。  ブクブクブクブク。 香織「何、これ」 正文「泡立ってるんだよ」 香織「何が」 正文「……」  だんだん、泡立ちが大きくなっていく。 香織「なんでこれ、”風呂の栓を確認”ってアナウンス出ないの」 正文「だからわかんないんだって」  香織は泣きたかった。早く家に帰りたい。でも、帰れる自信がなかった。  湯は増えていくが、栓が空いているから、ずっと水位は変わらない。 正文「これ、何かいるのかな」 香織「変なこと言わないでよ」  だが、この異常な泡は、何かが潜んでいるという考えに結びついてしまいそうだ。 香織「待って」 正文「どうしたの?」 香織「穴見て」  香織の声は震えていた。正文は渋々穴の方を見ると、そこには何かが生えてきていた。 正文「なんだよ、これ」 香織「これ……指」 正文「え?」 香織「ゆ、指!」  確かに指だった。細長い、爪。でも、それは小さい子供ぐらいの指だ。 正文「子供が……中にいる?」 香織「やめてよ、そんなのあるはず」  ゴボゴボゴボ。  その指は、だんだんと二人の顔に近づいてきた。 正文「行こう」 香織「どこに?」 正文「リビングに決まってんじゃん」 香織「え、でもこれ」 正文「伸びてそのままだ。多分こけの一種だと思う」 香織「そんな訳じゃないでしょ」  二人は興奮していた。  ひとまずリビングに戻ると、香織は、下を向いていた。 香織「どうすればいいの……?」  風呂のお湯は、異常なほど大きく弾けていた。  バッチャ、バッチャ、バッチャァァァン。 香織「何か……音がしない?」 正文「え……?」 香織「もう、帰る」 正文「待ってよ」  しかし、正文はピタッと動かなくなってしまった。  泡の音が止まった。  風呂から腕が伸びた。小さい子供の手だ。  その手はぐんぐんと横に振られた後、また沈んだ。  今回は、まだ水は残っていた……。 正文「静まったね」 香織「なんでよ……」 正文「とりあえず、今日は泊まってけば?」 香織「……うん」  二人は寝る準備をしていた。  だが、その時、もうあの腕は高く伸び、一つの胴体が上がっていた。  小学校低学年ほどだろうか。  しかし、ただの少年ではなく、色々な部分に特殊な擦り傷のようなものがあり、顔は赤く、肌は爛れていた。  その少年は湯船から降りる。  そのまま立ちすくみ、口を開けたり閉じたりしている。まるで、生まれたばかりの赤ん坊のモロー反射が起きているように。    二人は、なんとか寝つこうとしていた。  共に顔を合わせようとしない。  少年は、また動き始めた。扉を手で擦ったり、軽く叩いたりする。しかし十分経つと、強く”バン、バン、バン”と叩くように変化した。 香織「何か、音がしない?」 正文「え?」 香織「バンって」 正文「外でしょ」  不安は、高まるばかりだ。 香織「……見てきてよ」 正文「え?」 香織「見てきてって」  正文は追い詰められていた。  正文「嫌だよ」 香織「なんで? 男でしょ」  今の時代、そんなのどうでもいい。  正文は、渋々洗面所に向かった。少しだけ見てすぐ帰るつもりだった。  だが、誰もいないはずの人の影を見てしまったら、もう立ちすくむことしかできなくなっていた。  正文は泣きそうになっていた。しかし、背丈は自分の方が遥かに高い。戦ったら勝てる自信はあった。  もう襲いかかってきたら、一発殴ろう。  少年は、ずっとドアの前にいた。何がしたいんだ……?
正文「誰か、いた」 香織「もう嫌だ」  香織はとうとう泣き始めた。  少年は腕と手を震わせた後、なんとかドアを開けた。  ペタ……ペタ……。  だけど、洗面所のドアの開け方はわからない。この少年から見れば、わかりにくい構造だ。  バン、バン、バン!! 正文「逃げた方がいいかも」 香織「どんどん近づいてきてるよ……?」 正文「まだ廊下にはいないと、思う」  とうとう、洗面所のドアを開けた。少年は喜ぶように気色悪い鳴き声を出して、廊下に出た。  しかし、二人はまだ話していた。 香織「足音……」 正文「もう逃げよう」  二人は歩き始めた時、香織は大きすぎる悲鳴を上げた。  ドアのガラスの前に、人がいたのだから。
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