2人が本棚に入れています
本棚に追加
アマヤドリヤドカリ
その日は、恐ろしいほどの豪雨だった。
なぜろくに天気予報も見ずに、軽い気持ちで海岸になんて来たのだろうと、自分の浅ましさを反省していた。
改めて確認した天気予報では「歴史的な豪雨」なんて書かれているし、ここから1時間ほどがそのピークらしかった。そのピークを終えれば、たちまち晴れるらしいが、ここで1時間耐えるなんて馬鹿な話だ。
徐々に砂が泥へと変わり、歩きにくくなっていく砂浜を、必死に進む。遠くに見えるコンビニにでも駆け込もうと、狙いを定める。目的地に向かって、重い足を、一歩、二歩。
すると、目の前に大きな貝殻が見えた。
よく目を凝らしてみる。
「ああ、ヤドカリか」
こちらに穴を向けている貝殻がくるっと回り、蟹蟹しい顔が俺のことを見る。気持ちの悪い顔だなと、瞬間的に思う。
嫌気が差し、帰ろうと一歩を踏み出した途端。
-助けてくれぇぇぇぇぇぇぇぇ。
そんな呻き声が聞こえてきた。
雨は、だんだんと強さを増していく。
それでも俺は、声がしたであろうその貝殻の奥へと目線を外せないでいた。
-ここで雨宿りしないかぁぁぁ。
今度は、俺を誘うような声。
おそるおそる穴を覗いてみる。
でも、何も見えない。
やっぱり勘違いか。
そう思い、体を回そうとした瞬間、
「アマヤドリしていきなさいよ」
やけにはっきりとした、
野太い声が聞こえてきた。
「誰だ」
そう口に出した時には、もう遅かった。
俺の体は、その赤く強靭なハサミによって捉えられ、抗うこともできないまま、その貝殻の中の暗闇へと、すんなりと吸い込まれていった。
***
「はあっ!」
突然に意識が戻り、視界が開ける。
するとそこには、沢山の人間がいた。座っていたり、寝ていたり、俺のことをじっとみていたり。
一番そばで俺のことを見つめていた長髪の女性に、俺は、おそるおそる話しかけてみた。
「すみません、ここは?」
「ヤドカリの貝殻の中よ」
「は、はい?」
一面に広がる、白世界。
立ち上がってみると、地面はなんだかジメジメしている。それでなにやら臭い。海の腐ったような、匂いがする。
「ここを、アマヤドリヤドカリと呼んでるわ」
「はあ。なんだか余裕がありますね」
「そんなことないわ。逆に参ってるのよ」
「あの、そんなことよりここから出たいんですけど、どこに行けば?」
女性は、分かりやすくため息をついた。
「脱出方法を知ってれば、私たちだってさっさと抜け出してる。ここにいる人たちの数を見れば、察しはつくでしょう?」
ざっと、100人くらいはいるだろうか。
つまり怠けている者たちは、きっと。
「ここからは、抜け出せない?」
「その通りよ。アマヤドリヤドカリに私たちは閉じ込められた。ここで、一生雨宿りをしているの」
厄介なことになったな、と冷静に思う。
ここから抜け出すような突飛な発想が自分に浮かぶとも思えないし、ここまで恒常的に続いている事象が、このタイミングで狂うとも思えない。
「あなたは、いつからここに?」
なんとなく聞いてみると、女性は一本指を立てた。
「一日前?」
「残念。一ヶ月よ」
鳥肌が、一斉に頭を上げた。
ここまでのものとは思っていなかった。てっきり、皆、今日の雨の被害者なのかと。
「それにしても、あなたびしょ濡れね」
そう言われて、自身の体を見下ろす。さっきの雨の記録はリセットされないようで、俺は引き続き濡れていた。シャツの色も見事に変わっている。
「今日は、歴史的な豪雨らしいですよ」
俺がそう言うと、女性の目が、ぐるりと色を変えたように見えた。しかもそれは、連鎖的に、遠くで寝転がっている人たちにも、伝染した。
「それは本当か?」
「豪雨…あり得るぞ」
「可能性は十二分だ」
なにやら騒ぎ立てる、アマヤドリヤドカリの住人たち。すると女性が、俺の元に近づいてきた。
「豪雨について、詳しく教えてちょうだい」
その熱い眼差しに負け、俺はすんなりと天気予報で確認した情報を報告していった。
「つまり、今がピークだと?」
「はい。予報では」
「よし、ヤドカリの体を押そう!」
女性はそう叫ぶと、この白世界の端にある、柔らかそうなクリーム色の部分へと移動した。俺も、なんとなくついていく。
「これはヤドカリの胴体だ。貝殻の中に入り込んでいる一部が、ここにある。ここを押す」
「押したらどうなるんです?」
「体と貝殻の間に隙間が生まれる。それによって、その歴史的豪雨とやらが入り込んでくる」
説明の最中、女性の後ろでは、住人たちがゾロゾロと集結してきていた。
「この貝殻内を雨で満たす。そうすれば自然とその波に乗っかって、私たちは脱出できる。ヤドカリの習性として、ひとつあるのが」
女性がヤドカリの体を踏みつけ、誇らしく口を開いてみせる。
「嫌になったら貝殻の引越しをするんだよ」
ヤドカリは数ヶ月で貝殻を、棲家を変える。たしかにそういう話は、聞いたことがあった。
「水でタプタプの棲家はヤドカリも嫌だろう?」
「それは、そうかもしれないです」
その会話を皮切りに、住人たちは一斉に、ヤドカリのはみ出ている体を踏みつけ始めた。
「いくぞ、せーのっ!」
どん。どん。どん。
呼吸を合わせ、タイミングよく踏みつける。
俺も仕方がないので、混ざる。
どん。どん。どどん、どどん。
「来たぞ、雨が漏れてきたぞ」
女性の言う通り、ヤドカリの体の隙間からは、水が染み出してきていた。つまりこれは、勢いよく飛び込んできた、今の豪雨のカケラだ。
「気合い入れるぞ!」
全員の士気が高まり、足音が重みを増していく。
どうん。どうん。どうううん。
どううん。どううん。どうっううん。
その繰り返しで、水はいつの間にか、俺の上半身を埋め尽くすまでに増えていた。住人たちの、歓喜の声が飛び交う。しかしそれを、女性が制す。
「まだだ。ヤドカリへのストレスが足りない」
そして俺たちは、ラストスパートをかけた。
ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど。
どどどど、どどどど、どどどどど。
だが、思っていたよりもヤドカリは引越しを始めてはくれなかった。これでは、俺たちが脱出するよりも前に、この貝殻内が水で埋め尽くされてしまう。それでは、ただの溺死だ。
どどどどどどどどどどどどどどどど。
どどどどどどどどどどどどどどどど。
一ヶ月近く閉じ込められていた住人たちの行進は、水中になろうとも止まる気配がない。俺の声だって、もう届かない。
そしてついに、水が顔を埋め尽くした。
息が、できない。
視界が、ぼやける。
意識が、遠のく。
「あぱごぽのぽらたっがぱぽ…」
声にならない声を振り絞りながら、俺はぼやけた視界の中で、それでも足踏みを続ける女性の姿を眺めていた。偉いなあ。そんな風に、場違いすぎる感想が、頭の中には浮かんでいた。
***
「ぐはぁっ!」
再び、意識が戻る。
さっきまでの記憶と景色が、時雨のように殴りかかってくる。そうだ、俺はアマヤドリヤドカリの中で溺れて、それで…
「…晴れてる?」
見上げると、眩しくて苦しいくらいの快晴の空が、堂々と広がっていた。
「脱出、できましたね」
俺の隣には、さっきの女性が横たわっていた。
砂浜を見ると、住人たちも、あちこちで横たわっている。どうやら、俺たちは抜け出せたらしい。
天気予報も、バッチリだ。
歴史的な豪雨を終え、空は見事なまでに晴れている。
「いい、天気だなあ」
そんな風に思ったのは、生まれて初めてだった。
晴れてたって、雲が幻想的だって、俺は何も感じたことがなかった。別に当たり前だし、って。
アマヤドリヤドカリに閉じ込められなかったら、こんな気持ちには、ならなかったんだろう。
「貝殻、だけだ」
女性はいつの間にか、抜け殻となったアマヤドリヤドカリの貝殻を撫でていた。
「一体、なんだったんだろうな」
女性が、溶け落ちそうな声で呟く。
「なんだったんでしょうね」
この貝殻に棲みついていたであろうヤドカリ本体の姿は、もうどこにも見当たらない。その姿を想像しながら、俺は、女性と一緒に貝殻を撫で続けた。ざらざらしていて、でもつるつるな感じもして、磯臭い、その貝殻を。
-た、助けてくれぇぇぇぇぇ。
するとどこかから、また呻き声のようなものが聞こえた気がした。でも、女性は見向きもしていない。
「今、何か聞こえませんでした?」
「さあ。空耳じゃないのか」
アマヤドリヤドカリ。
俺は意味もなく、頭の中でその名称をひたすら反復していた。言葉の響きが良くて、本当にただそれだけで、反復を続けていた。
最初のコメントを投稿しよう!