あの子は太陽になったのだ

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   五百年以上降り続いていた雨が、この間、急に止んだらしい。  友達とか家族とか、画面の向こうの偉い人とかがわーわー騒ぐのを尻目に、僕はふーんとだけ思った。  だったら、なんだと言うのだろう。僕らにとっては、「上」が雨だろうと晴れだろうと、関係ないのに。  僕にとっては、生まれてからずっと、人間とは水の中で暮らしている生き物だ。僕らの祖先が地上に足をつけて生きていたのは、遠い遠い昔の話で、御伽噺くらい現実味のない話なのだ。  僕がそう言ったら、「御伽噺みたいに素敵な話じゃない!」と目を輝かせた幼馴染のあの子の声が、今でもたまに僕の頭の中にこだまして、やがて消えるのを繰り返している。もう忘れただろうと思った頃に、やってくる。人って、声から忘れると言うけれど、あれは嘘だと思う。  幼馴染は、太陽に焦がれていた。見たこともないのにだ。  おそらくそれは、未知のもの、決して手に入らないものへの憧れに過ぎない。そんなことよりも、僕らにはもっと大切なものがあるだろう。僕は彼女が太陽や地上への憧れを語るたびに、そう一蹴した。  僕はいまでも、そう思っている。  でも、もし人間が地上で暮らしていたとしたら。「上」が晴れたその日から、考えてしまうようになった。  そうしたら、建物の外に出るときに、いちいち重たいガスボンベを背負って、邪魔な酸素マスクを口に付けなくてもいいのかな。ガスボンベの残りを気にしながら行動しなくても、いいのかな。……水の上を目指して泳いだあの子が酸素不足で死んでしまうことも、なかったのかな。  そんな、無駄なことが頭をちらついては、どうしても消えてくれない。  そんなことを考えても意味はないのだ。もし僕らが地上で暮らしていても、好奇心旺盛なあの子は、今度は水の中に憧れて、酸素マスクなしで飛び込んでしまうかもしれないし。  でも、どうしてもそんなことが、頭から離れなかったから。あれほど彼女の太陽への憧れを一蹴していた僕が、一人、水の上を目指して泳いでいることに理由があるとすれば、そう言うことかもしれない。  もしくは、果たして「太陽」というものが、あの子を連れて行ってしまうほど素晴らしいものなのか、価値のあるものなのか、確かめたかったのかもしれない。それとも、彼女の悲願を達成したかった、とかそんな殊勝な思いが、僕の心の奥底に眠っていたのかもしれない。  実のところ、僕にもよくわからない。だがしかし、とにかく、僕はいま、死にそうになりながら「太陽」を目指している。  死にそうになりながら、というのは比喩でも何でもなく、単に酸素が足りてないからだ。  一応、計算はして、一番大きいガスタンクを積んできたのだ。計算は間違っていないはずだ、僕の泳ぐスピードが、いつもと同じであれば、余裕で水の上まで辿り着けるだろう。しかし、一番大きいガスタンクが馬鹿みたいに重たいのが問題だった。こんなの背負って、普通に泳げるわけないのだ。  先ほどから色々と思考を巡らせているのも、そのためだ。あんまり思考をすると、酸素を使ってしまうから良くないのかもしれない。しかし、なにか考えていないと持っていかれそうなのだ、意識が。  もうそろそろ、水の上に顔を出せるはずなのだ。光が差し込んで、周囲の水の色が淡くなっている。だから、太陽は近いはずだ。それなのに、なかなか辿り着けない。  口からこぽこぽと空地が漏れ出す感覚がしてきた。もう限界が近い。苦しい。  あの子もこんな風に、苦しんだのだろうか。そしたら、このまま息ができなくなったって、それもいいのかもしれない。そんなことを思った時だった。  ごおっと激しい水の塊が僕を襲った。何を考える暇もなく、急に現れたそいつは僕を巻き込んで。  遅れて、あ、と思った。  強烈な力で振り回される。なす術もなく、僕は水の中を渦巻くものに身を任せた。よりいっそう強い力が僕を強く押し付ける。  死んだ、と思ったときだった。  急に身体中を襲った力がふっと抜けて。唐突に目の前が晴れて。  明るい。眩しい。なんだ、これは。  ゆっくりと目を開けた。  これは光だ。空気だ。  一面、白い世界だった。何度か瞬きをする。目が慣れてくる。  いや、青い。そうか、これが空か。一面、真っ青ではないか。いや、でも、光が——。 「あ」  さざなみの音だけが静かに存在する空間に、声が響きわたった。驚いてから気がついた。僕の声だ。あ、と思っただけなのに、声に出ていた。  目を凝らしてみるとわかる。白い球体が、一面の青にぽかんと浮かんでいる。そこから放射状に何かが溢れ出て、その輪郭を揺らめかせている。  これは、なんなのだ。  僕は白くゆらめく球体を、訳もわからずじっと見つめた。そしたら、目がちかちかと焼けるように痛み出した。  僕は、そうか、と思った。これは、高度に密集した光の塊なのだ。この白くてぼやけた球体は、光の源なのだ。  そうか。これが太陽なのだ。  僕が想像していたのは、表面が赤く、燃え盛る炎を球状に押し込めた、そんな絵本の中に登場するような「太陽」だった。  でも、ああ。どうしてだろう。想像とは、期待していたものとは全く違うのに。  真っ青な平面から、ぼやけた球状の輪郭を白抜きにしたような太陽は、しかし、この世界の光の源なのだ。たった一つの白い球体が光を放って、かつて、この世界中の人間たちを照らし続けたのだ。それはすごく、美しいことだと思ってしまった。  僕は唇を噛んだ。この感動に手放しに味わうつもりには、到底なれなかった。  僕はこの太陽に、何を望んでいたのだろうか。  きっと、自分のこの目であの子の「夢」を見て、お前の憧れは大したものじゃなかったんだぞ、と言ってやりたかったのだ。お前はこんなものを追いかけて死んで、馬鹿だったんだぞ、と。  だって、太陽への憧れが、その魅力が、あの子を連れて行ってしまったなんて、そんなことは絶対に思いたくなかったんだ。だから仕方なかったんだ、なんて、絶対に思いたくはなかった。  僕は、彼女がこの光の源を目にしたら、もしここに僕の隣に彼女がいたとしたら、あの凛と高い声はどんな言葉を形作るだろうか、とふと想像した。  そしたら、それが全く言葉の輪郭さえも紡ぎ出せなくて。あの凛とした高い声が、新しい言葉を作り出すことを、全く想像できなくて。  あの子は本当に、僕の前からいなくなってしまって、二度と現れないんだ、とやっとわかった。  でも、そんなの関係なしに、太陽は輝き続けるから。だから僕は、この太陽に、世界を明るく照らす太陽に、あの子の姿を見てしまった。  あの子はもしかしたら、太陽になったのかもしれない。そんなことをぼんやりと思ったら、なんだか救われたような気がして。  それも、悔しかった。救われたくなんてなかった。あの子が僕のそばよりも太陽を選んだことを想像して、救われたくなんかなかったのに。  ああ。やっぱり、と思った。  やっぱり僕は、水の中の方が合っている。だって、水の中だったら、その頬をつたる塩水も、うまく隠せるから。  
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