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◆白い雨上がり◆
じんわりと浸みこんできた冷たい泥水が真っ白な過去を綺麗に汚していく。親指と人差し指の間が気持ち悪い。
「何やってんですか? 水溜りがびっくりしちゃいますよ」
野良猫を見つけた時のような、少し高めで穏やかな声が背中に突き刺さった。
「ナカガワくんこそ何やってるの?」
「サトウさんが戻ってこないから、様子見に来たんですよ」
思わず、飛び出してきてしまった。トマト採ってきますなんて言って。レストランの裏にある畑、5月にトマトの苗を植えた。店長とふたりで。実ったトマトは小さかったり大きかったり赤だったり緑だったり。どれもこれも、雫を纏ってキラキラと輝いている。
店長が作るトマトが好きで、店長が作るトマトジュースが好きで、店長が好きで。
日曜の15時半、カフェタイムに訪れたのは店長の奥さんと4歳の娘さんだった。パパのトマトが食べたいというその子のために、私はトマトを採りに来た。
けれど、私はトマトを採ることが出来なかった。
「いいんですよ、ごめんなさいね。雨で畑びちゃびちゃだから、行かなくて良いですよ」そう言って優しく笑いかけてくれた店長の奥さんの笑顔を見ていられなかった私は「大丈夫ですよ」と言って外に飛び出した。
雨上がりのどろどろな畑に、白いスニーカーが埋もれていく。
「こんな甘ったるいトマト、子供に食べさせちゃだめですよ」
真っ赤なトマトをもぎ取ってかじったナカガワくんが、水溜りの中でしゃがみ込む私に食べかけのトマトを差し出した。
「…………」
わかっている。そんなことはわかっている。
「店長とサトウさんで植えたトマトは糖度が高すぎる。無農薬だけど、子供には毒です。本当は俺も食べたくないです」
「…………」
わかっている。そんなことはわかっている。
「こんなもの、よくお客さんに出せますね」
「……そうだよね」
「あっ、すみません。舌が毒されちゃってつい」
すみませんだなんて微塵も思っていないだろう。ナカガワくんは水溜りをヒョイっと飛び越え私の目の前にしゃがみ込んだ。そして私の顔を凝視すると、にこりと微笑みながらまたトマトを私に差し出した。
ナカガワくんから受け取ったトマトを一口かじると、甘ったるい切なさが口の中にジュワッと広がった。
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