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「最初は何の事はない、泥の轍だと思ったんです。ほら、車がぬかるんだ道を通ると出来る奴みたいな」
体験者の“K”はそう語る。
6月は梅雨の時期、彼が住む山と隣接する地にも、雨がよく降る。その雨上がりの事だ。山の入り口から、Kの家がある住宅地に向かって、泥の轍が出来ていた。
「うちの住宅地、地面はアスファルトですが、目と鼻の先が、もう山なんで…泥道が続くって、結構目立つんですけど、あまり、深く考えませんでした。ほら、林業とか、畑がある人も多くて、あの辺の土地は安いし…雨降って、車で撤収した際に出来た道とか、実際に泥の筋?いや、道か…それは、一軒のお宅の前で終わってましたから、車入れた跡だと、誰でも思うでしょ?」
その年の梅雨はニュースによれば、5日間続けての雨予報…これは、外出が相当、めんどくさい事になる。
「ただ、僕は自宅勤務、テレワークなので、そう困らないかなぁと思っていたら…」
お昼頃、住宅地にサイレンを鳴らした救急車が止まっていた。
「新興の住宅地でしたが、高齢世帯も多かったから、ひと昔前の移住ブームみたいな…交流もほとんどなかったけど、あまり気にしなかったです」
その日の夕方、雨が終わり、買い出しに出掛けるKは、道に出来た、泥の轍を長靴で踏みながら、住宅地を出る。
用を済ませ、帰宅する頃には、再び、雨が降り出していた。正直、ウンザリしながら、彼は家に入った。
翌日、昼食をとるKの耳にサイレンが聞こえる。
「2日連続の頻度に多少驚きましたが、まぁ、高齢大国ですし、なくはないかなぁと、ただ、気づいちゃったんですねぇ…」
雨上がり、夕日が照らす住宅地を2階の窓から見ると、山から続く道が出来ていた。1日目の朝とは違う家に続く泥の轍…
「同じ家じゃないんですよ。こないだの家の真向かい2件先…注意して見ていたら、やっぱりお昼に救急車、止まってました。近所の人たちが外で話してるのを立ち聞きしたら、3件とも死亡案件…迷わず図書館行きましたね」
彼が調べたのは、地方新聞…何十年分の記事を調べる内にわかった。
「15年前と5年前の梅雨の時期、同じ事が起こってました。15年前は集落、5年前は今の住宅地で…恐らくずっと前から続いてる事象です。
梅雨の雨が続いた時、山から泥道を通って、何かがやってくるんです。そして、泥が行きつく先の家の誰かが死ぬ。今年は雨が5日続く、後2人が死ぬかもしれないとわかった時は、ゾッとしましたが、まだ半信半疑でした」
しかし、雨が止んだ後の帰宅時、泥の道が自身の真向かいの家に続き、翌日、その家の前に救急車が止まった時、妄想は現実の問題として変わった。
「要は後1日、後一人にならなければいいんです。その日は、雨が止む瞬間まで、戦々恐々で過ごしました。
普通、雨上がりって、何かウキウキとか、ワクワクするじゃないですか?家に閉じこもってたのが終わって、外に出れる的な…それが、雨に止んでほしくないなんて願うなんて…とにかく、あの時は気が気ではなかった。そしたら」
山ごしの日差しがさす住宅地、泥の轍は自身の家に続いていた。
「パターンを考えました。4日間の雨止みは夕方、夕方から、次の日のお昼までに、泥を何とかすれば、助かる。今、考えれば、そんな法則なんて、なかったのかもしれないけど、必死でした。日中は目立ちます。実行するとしたら…」
深夜、Kは買ったばかりの大型スコップで、自身の家の前の泥を掻き出し、お隣へ向くよう、道筋を作り出していく。
「ご近所付き合いは、ほとんどなかったし、いいかなと…自分ちの前から、どかすだけと思ったけど、もし、それで、相手がいない場合、生贄がない時、何が起こるかが、怖くて…お隣に泥被ってもらおうと思って、ただ、意外に硬いし、重くて…さらに言うと情報不足でしてね」
後もう少しで作業が終わると言う時、隣の家から、老人が現れ、Kに怒声を上げた。
「顔見て、察しました。気づいてる人は僕だけじゃなかったと、でも、こっちは死に者狂いですからね」
互いに悲鳴のような声を上げ、掴み合う内に…自身の大型スコップが老人の首筋に収まる。生暖かい液体が、顔に勢いよくぶつかり、Kは意識を失う。
「気が付いた時は、警察病院でした。そのまま精神鑑定を受け、現在もここに収監入院です。5日目の死者は、あの、おじいさんで終わりました。色々ありましたけど、今はスッキリしてます。こんな都会のど真ん中じゃ、何も起きませんよ」
そう言って、朗らかに笑う彼に頷きながら、カウンセラーの“C”は、相手に見えないよう、抱えたバインダーに“拘置環境変更措置については、以前として困難”とメモし、病室を後にする。
Kが異様な事件を起こし、2年目を迎える。今年の梅雨は雨量こそ、少ないものの、いつまでも、何日もジトジトと降り注いでいた。
ロビーを通過し、玄関を目指す彼女の足元を光が照らす。外を見れば、雨あがりの日差しが、辺りをオレンジ色に染めている。
傘を畳み、一歩踏み出すCの足が止まる。彼女の目には、大きな泥の轍がまっすぐ、病院へ伸びる光景が映っていた…(終)
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