大丈夫

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 雨上がりの空気で毎回思い出す記憶がある。小さい頃の記憶だ。  もうほとんど止んでいる雨にまだ合羽を着て傘をさして、覚えたばかりだったんだろうあめふりを歌っていた。多分どこかへ行った帰りだったんだと思う。母さんが隣で歩いていて、元々どんな顔をしていたのかは記憶にない。だけど歌詞の『かあさんが』のところまでいったとき、いきなり母さんが大声を出した。 「あんたの母さんなんかじゃない」  そのときの母さんの表情と声、それに雨上がりのあの空気がセットで、ずっと心に残っている。  あとから聞いた話だけれど、母さんは俺の実母ではなくて本当は叔母らしい。俺の実母は俺が生まれてしばらくしてから俺を置いて逃げたらしい。俺の知ってる人でその後実母に会った人はいないからいろんな人の予測になってしまうけれど、実母は俺の世話をすることができなくて逃げたんだろう、弱い人だったんだと言われている。  母さんが「実はあんたの本当の母親じゃなくてね」と話し始めたときにようやくあの雨上がりの記憶が理解できた。確かに母さんは俺の母さんじゃないんだろう。まあ実母ではないからと言って俺は母さんのことを母さん以外で呼ぶことはできないんだけれど。  思うに、母さんだって本当は強いわけじゃないんだろう。ただ俺を置いて逃げた実母よりかはちょっと強くて、俺を置いて逃げることがなかったというだけで世間一般で見れば決して強い人ではないと思う。だからまだ幼い俺に、俺が歌っていた歌詞に当たるような真似をしたのだろう。それは決して強い人ではない母さんの姿だけれど、その姿は数年に一回出るかどうかであった以上十分強い人で、きっとその姿を出さないように努力してもいたんだろう。  それでも母さんは俺のことを母の役割で育ててくれた人だ。母さんに文句がないわけではないけれど、顔も知らない実母に言いたい文句よりはずっと少ない。というか実母ではないからこそ育てる義務がなかったはずの俺を育ててくれたことに対する感謝が強くなった。俺はやっぱり実母のことを母親だとは思えなくて、だから母さんが母さんなんだろう。 「あんたは覚えてないと思うけど」  俺は笑顔で聞く。 「昔一回あんたに当たっちゃったことがあってね」  うん、覚えてる。 「こんな話をすることそのものがよくないのかもしれないけど、私はずっと覚えててね」  よくわからないけれどというように首をひねって見せる。 「ごめんね、今更だけど」  よくわからないけどという顔を崩さずに頷いて見せる。大丈夫、俺は覚えているけどそれを恨みに思ってるとかはないから。感情とかそういう形では残ってなくて、びっくりしたことが多分その形のままその空間丸ごと切り取ったみたいに心に残ってるだけだから。  雨上がりの空、広げたままの傘と合羽のフードのふち、母さんの表情と声色、母さんの言った言葉、そういったものが全部切り取られて、あの一瞬だけが切り取られて俺の心に残っている。ああ、あのときの母さんの表情、怒っていたんだと思ったけれど、多分途中からは違った。こんなことをぶつけてもだとか、こんなことこの子のせいじゃないとか、こんなことはするまいと思っていたのにとか、そういった後悔とかそっちが強い表情だったんだ。それを分析出来るくらいに俺の中に残っているこの記憶ははっきりしていて、そのことが少し面白い。  別に気にしてなんかないよ。大丈夫、俺はその記憶をおもしろがれるまでになったから。だって母さんあれ以降は今まで母さんという言葉を否定したことはなかったでしょ。
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