夕焼けと本能

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  今日は卒業式だというのに、雨が降っている。大和と私が中高6年間を過ごしたこの学園に雨の中さよならをする。私たちは1日の天気一つすら思い通りにできない。  全寮制中高で、家族よりも長い時間を一緒に過ごした。6年間出席番号が隣で、同じテニス部の大和とは双子のように気が合った。四六時中一緒にいた私たちが恋仲になるのに時間はかからなかった。大和を大和と呼ぶのは私だけ。私を八千代と呼ぶのは大和だけ。  私たちが付き合っていることは誰にも言わなかった。秘密の恋だった。だからペアリングは薬指ではなく、右手の人差し指にしていた。  教室に着くと、クラスメイトがガヤガヤしていた。いつもは着崩した制服と、寮でのラフな格好しか見ていなかったから、きっちりとボタンを留めたみんなの制服姿が新鮮だった。 「雨なんてついてないよね。この学年、雨女いたんじゃない?」 「サオリが雨女だったりして」 「ひっどーい!私は雨女じゃありませーん」 いつもと変わらない他愛の無いやり取りをする者、これから始まる卒業式の話をする者と様々だった。 「答辞ってシホだっけ?」 「ううん。答辞は私」 「あ、謝恩会の挨拶がシホか」 「そうそう」 「やばい、あたし今から泣きそうなんだけどー!」 「えーユウカ泣くの早くない?」 ガヤガヤとした教室だが、一際大きな声でクラスメイトのミユが窓際に人を呼び寄せた。 「ヒナぁ。いまのうちに写真撮ろうよ!みんなも集まってー!」 ぞろぞろと大勢が窓際に集合する。 「もうちょいみんな真ん中寄って!ユウカはもっとかがんで!」 「ちょっと、今私目つぶったからもう1回!」 「あとでクラスラインに貼っといてねー」  ミユやユウカと窓際で写真を撮る大和は、廊下側でクラスメイトと話す私と目を合わさない。私の寝顔も、泣き顔も知っている大和に、私の今の顔はどう映るのか。  大和は私の青春のすべてだった。大和は私の弱いところも駄目なところも全部知っていた。中学二年生の時に少年漫画のキャラの真似をして「俺」と言って男言葉をしゃべっていたこと。作文が苦手なこと。私が書いた大和の生徒会長選挙のための応援演説の原稿は日本語がおかしくて、ほとんど大和に修正してもらった。  私を副会長として生徒会に迎え入れてくれた大和には心から感謝をしている。思えば、引っ込み思案だった私をテニス部の体験入部に誘ってくれたのも、一緒に入部届を出しに行こうと言ってくれたのも大和だった。いつも大和が私の手を引いてくれていた。  二人で生徒会にいたときは、忙しいながらも充実していた。文化祭や生徒総会の前は日曜日を返上して寮の部屋で、二人きりで作業を進めた。朝からずっと作業をして終わったときには夕方なんてこともざらにあった。部屋に差し込む西日の眩しさが今も忘れられない。  思えば、寮の部屋から見える夕日はとても美しかった。初めてキスをした日も窓から鮮やかな夕焼けが見えた。夕焼けに照らされた大和の美しさを自分だけのものにしたくなった。どちらからともなく、私たちは唇を重ねた。  大和の愛読書カミュの『異邦人』の中では主人公のムルソーが、太陽がまぶしかったという理由で殺人を犯すらしい。太陽は人を衝動的にするのだろうか。  難しくてよく分からなかったけれど、犯行そのものは命の危機を感じての正当防衛が成立するシチュエーションであったらしい。しかし、実際には「太陽がまぶしかったから」と供述したことで正当防衛は適応されず、ムルソーは処刑される。  いけないことだと分かっていた。生きたいと願うことが人間の本能ならば、愛したいと願うこともまた本能なのだろう。太陽は人の本能を呼び覚ます。私たちは、夕日のせいにして毎日のように狭い部屋で唇を重ね合わせた。13歳の幼い恋は歯止めがきかなかった。初恋は叶わないと昔の誰かが言ったけれど、夕日が言い訳をくれた恋を永遠にしたいと願った。  ある夕方、キスをした後、私たちは窓辺に立って夕日を眺めた。手を繋いで指を絡めて、遠い未来を夢見た。 「大人になったら駆け落ちしよう。これは俺達の恋を守るための正当防衛だよ」 手を握る力は、どちらからともなく強くなった。 「……じゃあ必ず私をさらってね」 「約束する。だって、こんなにも夕焼けは綺麗だから」 初恋を守るための聖戦を大人に挑む約束は、果たされることはなかった。  私が内部推薦で大学進学することが決まった日に、大和が卒業後フランスの大学に留学することを知った。大学を卒業した後、向こうで院に行くかもしれないし、向こうで就職するかもしれない。いつ戻ってくるかは分からない。大和は普通の大人になった。いつまでも子供のままごと遊びのような恋にとらわれるよりも、無限の可能性のある将来を選んだ。  出発の便は卒業式当日の17時すぎに出るらしい。卒業式は出られるけれど、そのあとの謝恩会には出席できないと言われた。  少しずつすれ違いは進んでいった。留学準備の段階で、進路が分かれただけで私たちの生活は少しずつ変わっていった。きっと、いつか耐えられなくなる。私たちは、高校を卒業したら別れることにした。夕日の中の思い出を永遠に綺麗なままにしておくために、残りわずかな時間を大切にしようと決めた。  寮の荷物をすべて実家に郵送した昨日、最後の夕焼けを眺めながら、あの日と同じように窓辺に立って手を繋いで指を絡めた。 「八千代、友達に戻ろう」 「うん。わかった」 「本当に好きだったよ」 もしも願いが何でも1つだけ叶うならば、あの手を永遠に離したくなかったのに。  卒業生のコサージュ、胸元の花の花言葉も物知りな大和なら知っているんだろうか。そんなことをぼーっと考えながら講堂に移動し、卒業式が始まる。 「赤城沙織」「はい」「浅川みゆ」「はい」「石崎優花」「はい」 卒業証書の授与が始まった。出席番号順に並んだ講堂で、私のすぐ隣に大和がいる。手をほんの数センチ動かせば、大和の手に触れられるのにもう触れることはできない。  大和と手を繋いで夕日を眺めたあの日々。もう大和はペアリングを捨ててしまったのだろうか。左手の薬指に指輪をはめて、繋ぎとめることはできない。いつか大和は私以外の誰かと同じ指輪をして、私以外の誰かと手を繋ぐんだろう。  式が終わった後、講堂から校舎に戻る途中で大和を見失ってしまった。少し遅れて教室に戻ると、大和の荷物も大和の姿もなかった。最後のホームルームを待たず、空港に向かうらしい。私は大和を探して教室を飛び出した。  昇降口に大和の上履きも革靴もなかった。もう出発してしまったのかと思ったけれど、そんなに時間は経っていない。もしかしたら裏口の方から出たのかもしれない。  私は裏口に走って向かった。すると、スーツケースをひいている大和を見つけた。大和を呼び止める。 「ああ、見つかっちゃった」 息を整える。 「見送りに来てくれたの?」 「うん」 言いたいことはたくさんあるのに、言葉が出て来なかった。 「そっかありがとう」 大和が私の頬に手を添える。そして、大和の唇が私の唇に触れた。学校の校舎内でキスをされたのは初めてだった。 「さよなら八千代。愛してた」 それだけ言うと、重そうに見えるスーツケースを持っているとは思えないくらい軽やかに走り去っていった。スーツケースのガラガラという音だけが廊下に響いた。最後まで声が出なくて返事はできなかった。  6年間付き合った恋人と本当に最後の別れをしたばかりだというのに、私はあの後平然と教室に戻り、謝恩会でクラスメイトと平然と思い出を語り合っている。きっと大和のいない生活がこれから普通になっていって、大和も「八千代」を忘れるのかもしれない。 「続きまして卒業生代表より、保護者の皆様、先生方への挨拶です」 大和のいない謝恩会はどんどん進んでいく。私はポケットからメモを取り出して前に出る。 「生徒会長・大和妃奈に代わりまして副会長の私・八千代志保が挨拶をさせていただきます」 この原稿は作文が苦手な私の代わりに大和が書いた。京永女子学園高等部第72代生徒会長・大和妃奈。私の恋人。大和が書いた文章を私が読む。初めて愛した人との、最後の共同作業だ。  テニス部でダブルスを組んだ大和。五十音順に割り振られた寮の部屋割りで6年間ルームメイトだった大和。片耳ずつイヤフォンで同じ音楽を聴いた大和。  分かっていた。自分のことを「俺」と言って男言葉をしゃべったって、男の子にはなれない。結婚できない私たちは名字で呼び合ったって支障がない。18歳の何もできない私は、大和を追いかけるすべを持たない。どんなに愛し合ったって、必ず終わりが来る恋だった。  あの日、私たちは指を絡めて将来を誓い合った。 「大人になったら駆け落ちしよう。これは俺達の恋を守るための正当防衛だよ」 「俺?」  これが初めて私が自分のことを俺と言った日。 「大和のことさらう王子様みたいでよくない?俺が漫画の主人公で、大和がヒロイン。ロマンチックじゃない?」 「うん、素敵。八千代は私の王子様。じゃあ必ず私をさらってね」 「約束する。だって、こんなにも夕焼けは綺麗だから」 あの手を一生離さないと誓ったはずなのに、子供の私はとてつもなく無力だった。口先だけの私は大和に手を引いてもらわないと何も出来ない女の子だった。   謝恩会が終わり、大和と過ごした学校を後にして実家へと向かう。傘を一人で差して帰る。もう大和と相合傘をすることもない。いるはずもないのに、大和と同じ傘の色に、大和に似た声に反応して振り返ってしまう。自分でもバカみたいだと思った。頬が濡れているのは雨のせいにした。  大和が恋しくてスマートフォンで音楽を聴いた。大和が私のスマホに勝手に入れた音楽。いつも一緒に聴いていたその曲はフランス語のラブソングだったらしいけど、私はその歌詞の意味を知らない。でも、なぜかこの曲が好きだった。  午後17時を少し過ぎた頃、大和の飛行機を探して空を見上げた。いつの間にか雨は上がっていて嘘みたいに綺麗な夕焼けが広がっていた。空っぽになった私の心に、その景色が染み渡る。ただただずっと待っていると、飛行機が飛行機雲を描きながら遥か北西のフランスの空に向かって飛び立っていった。夕日の中で唇を重ねたヒナ鳥が遠い海の向こうで大人になるのなら、私はそれを追いかける鳥になりたかった。  幼さの象徴だった制服のブレザーを脱ぎ捨てて、空を見上げて決意する。夕焼けはいつだって私の本能を裸にした。  いつかこのラブソングの意味が分かるくらい大人になったら、大和をさらいに行こう。そして、最後のキスの返事をしよう。 「私は今でも大好きだよ」
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