1人が本棚に入れています
本棚に追加
「お待たせしました。」
突然、猫が目を覚ます。果物の匂いに呼び覚まされたのである。盆の上にはレモンが溢れている。猫の目はグリーンがかった金色である。猫はレモンの山を見て一声鳴く。それから身体を反転させて、こちらを見る。ずっと気付いていたのである。鋭い視線を寄越し続ける。婦人も遅れてこちらを見上げる。あら。意外そうな声を上げる。
「申し訳ありません。全然知らなかったものですから。猫を連れて来てしまって。怖がってるんじゃないかしら。」
Pは可笑しそうにこちらを見上げる。私はふんと横を向く。
「ご心配なく。大人しい猫は平気ですから。」
婦人はそれを聞いて安心する。穏やかな気持ちで猫を撫でながらレモンに見入る。
「レモンなら毎日食べているのよ。レモン酒を漬けるのが好きだから。」
「できればそのまま齧って下さい。」
Pは盆を机に下ろすと、一つ取って皮ごと齧る。酸味のある香りが立ち込める。猫がくしゃみを一つする。Pはしばらく目を閉じて、それから再びこの世界に戻ってくる。
「酸っぱいと思って目を閉じている間は、時間が流れないことをご存じでしたか、奥様?」
「まあ、初めて聞いたわ。」
婦人の表情はいきいきと輝く。Pと二人だけ、秘密を共有しているような気持ちになる。Pは秘密を共有していない。酸っぱくて目を閉じていた時間は、ぐるりと巡って今ここに存在している。
「じゃあ、そのレモン、全部いただくわ。」
Pは紙袋にレモンをざっとあける。猫は再び寝入っている。婦人は猫の塊の上に、レモンを載せるようにして店を出る。Pは深々と頭を下げて、書き物机を振り返る。私は机の上の本に近づいている。
「怖かったね、猫。」
Pの方を見もせずに、私は本のページを開く。眠りの浅い犬についての物語である。私はしばらく没頭して、ページをめくり続ける。
最初のコメントを投稿しよう!