あと一度だけ

1/1
前へ
/1ページ
次へ
「手術、決まったよ」  私はダイニングテーブルを挟んで、向かい合って座っている彼に、できるだけさりげなく、言った。  大したことじゃないんだよ、というニュアンスを醸し出したかったが、うまくできたかわからない。  日頃から無口で気持ちを表に出さない彼は、少し間を置いてから 「……うん」 と応えて、コーヒーを飲み干した。  いつの頃からか、首の骨が少しずれていて、体のあちこちに支障が出ていた。  医療に対して、私は全くの素人だ。だから今回受ける手術の説明を受けて、その内容に仰天し、恐怖から血圧が上がり、息切れと目眩で意識が飛びそうになった。 「担当の近藤先生、首の骨の手術、け、権威っていうの?なんか、専門?だから……大丈夫」  全然平気な雰囲気を醸し出せていないか、私。 「うん、知ってる」  彼はサラッと応えた。 「知ってる?」 「千里がその病気になったとき、調べたから」  彼は冷静沈着で、表情を変えない。  この人、なにを言ってるのかな?  沈黙になったダイニングには、キッチンの換気扇の音がブーンと小さな音を響かせているのみ。 「心配してないし、大丈夫なのもわかってる」  彼は無表情のまま椅子から立ち上がると、キッチンでコーヒーカップを洗い始めた。  私は彼に一目惚れだった。もう二十年も前のことだ。  彼は聡明で、考えの浅い私に、ときに意見を、ときに忠告をしてくれる、人生の『転ばぬ先の杖』的な人だ。だから好きになったわけではないが。 「一緒に暮らそう」 と提案してくれたのは彼だった。私は翼が生えたみたいに飛び上がった。嬉しくて嬉しくて、ジャンプしすぎて膝を痛めた。 「千里が心配だから」  膝をさすっている私に、彼はポツリ、と言った。  あ、そうか。私を好きだからじゃなくて、心配だから、か。  私は本当は自信がなかった。彼に好かれているという自信が。でもそれを言葉にしたら、終わってしまうような気がする。 「好きになりました」 と告白したときは 「ありがとう」 と言われた。 「つきあってください」 と勇気を出したときは 「いいよ」 と言われた。  一緒に暮らす理由は、私が心配だから。  彼に「好き」って言われたこと……ないかも。  担当の医者について調べてくれていたのも、心配だから……。  嬉しいけど……。 「忘れ物、ない?」 「うん」 「おくすり手帳、洗面台の上にあるけど」 「えっ、うわ、ちょっと濡れてる」  入院当日はバタバタと家を出ることになった。  彼が車で病院まで送ると言ってくれたとき、最初は助かるなあ、と思った。でもあとで考えたら、切なくなった。  十日くらい会えないんだよなあ。大丈夫だと思うけど、手術に百パーセントはないもんな。最後になる……なんて縁起でもないけど、ちょっと考えちゃうし。だったら送ってもらわないほうがいいかな。いや、せっかく送ってくれるって言ってくれてるんだし。うーん。  そんな私の葛藤を、彼は知ってか知らずか、スムーズかつ慎重な通常運転で、病院に向かった。  私は運転している彼の横顔を眺めた。  二十年前からずっと、渋くてかっこいい男だ。モテるだろうに、よく私を選んだものだ。好みが変わっているんだな、きっと。 「なに」  前を向いたまま、彼は一瞬、視線を私に向けた。 「あ、いや……。えっと、お見舞い、コロナ以降、ずっと禁止になってるから、来なくていいからね。着替えとかも全部レンタルにしたから、なにも取りに来てもらうものはないからね」 「うん、わかってる」 「ああ……あと、退院のときは自力で帰るから」 「あ、朝、迎えに行く」 「え……」 「心配だから」 「あ、うん。ありがとう」  心配だからね……。  病院のロビーで受付を済ませるまで、彼は一緒にいてくれた。 「じゃあ、行くね」  私は彼の手から荷物を引き取った。 「メッセージ、するね」 「うん」 「冷蔵庫に油揚げ、入ってて。消費期限、今日だった」 「わかった。今夜、中にひき肉入れて、焼くよ」 「えー、食べたい」 「退院したら、また作るから」 「わかった。約束ね」 「行きなよ。俺も仕事、行く」 「……うん。じゃあ。ありがとう」  エレベーターの扉が開いた。  彼がもういないのはわかっていた。仕事に遅刻してしまうから。  でも、残像だけでも……なんて思って、私は受付のほうを振り返った。  あ……。  受付の向こう。ロビーの隅。  彼の渋い顔がニコッと笑顔になった。皺が増えたその顔を、やっぱりとても好きだと思った。  千里が手術をすることになったと知ったとき、怖くて指が震えた。  失敗するような手術じゃない。知っている。さんざん調べたんだから。それでも、万が一でも、千里を失うのが怖い。  俺は自分の気持ちを素直に表現することが苦手だ。  千里が好きだと言ってくれたとき、本当はとっくに俺は千里を好きだったのに、それも言えなかった。  千里はいつもまっすぐで、何をしていても楽しそうで、プライドが邪魔するようなこともない。目をキラキラさせて、好奇心いっぱいで、大切なものを失くしていない、魅力的な女性。この二十年、飽きる暇も、冷める暇もなかった。  病院のロビーで離れがたい気持ちを抑えるのは、とても苦しかった。 「行きなよ。俺も仕事、行く」  仕事を理由にしないと、離れられないような気持ちでいっぱいになった。  大丈夫。たった十日。手術は成功するし、また今まで通りの生活になる。絶対千里を失ったりしない。  俺は受付を離れて、かろうじてエレベーターが見えるロビーの端に移動した。  好きだと伝えていないことを、後悔したくない。  エレベーターの扉が開いた。  千里。振り返って。あと一度だけ、キラキラした目を俺に見せて。  あ……。  俺はちょっと泣きそうになったのをこらえて、笑ってみせた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加