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「手術、決まったよ」
私はダイニングテーブルを挟んで、向かい合って座っている彼に、できるだけさりげなく、言った。
大したことじゃないんだよ、というニュアンスを醸し出したかったが、うまくできたかわからない。
日頃から無口で気持ちを表に出さない彼は、少し間を置いてから
「……うん」
と応えて、コーヒーを飲み干した。
いつの頃からか、首の骨が少しずれていて、体のあちこちに支障が出ていた。
医療に対して、私は全くの素人だ。だから今回受ける手術の説明を受けて、その内容に仰天し、恐怖から血圧が上がり、息切れと目眩で意識が飛びそうになった。
「担当の近藤先生、首の骨の手術、け、権威っていうの?なんか、専門?だから……大丈夫」
全然平気な雰囲気を醸し出せていないか、私。
「うん、知ってる」
彼はサラッと応えた。
「知ってる?」
「千里がその病気になったとき、調べたから」
彼は冷静沈着で、表情を変えない。
この人、なにを言ってるのかな?
沈黙になったダイニングには、キッチンの換気扇の音がブーンと小さな音を響かせているのみ。
「心配してないし、大丈夫なのもわかってる」
彼は無表情のまま椅子から立ち上がると、キッチンでコーヒーカップを洗い始めた。
私は彼に一目惚れだった。もう二十年も前のことだ。
彼は聡明で、考えの浅い私に、ときに意見を、ときに忠告をしてくれる、人生の『転ばぬ先の杖』的な人だ。だから好きになったわけではないが。
「一緒に暮らそう」
と提案してくれたのは彼だった。私は翼が生えたみたいに飛び上がった。嬉しくて嬉しくて、ジャンプしすぎて膝を痛めた。
「千里が心配だから」
膝をさすっている私に、彼はポツリ、と言った。
あ、そうか。私を好きだからじゃなくて、心配だから、か。
私は本当は自信がなかった。彼に好かれているという自信が。でもそれを言葉にしたら、終わってしまうような気がする。
「好きになりました」
と告白したときは
「ありがとう」
と言われた。
「つきあってください」
と勇気を出したときは
「いいよ」
と言われた。
一緒に暮らす理由は、私が心配だから。
彼に「好き」って言われたこと……ないかも。
担当の医者について調べてくれていたのも、心配だから……。
嬉しいけど……。
「忘れ物、ない?」
「うん」
「おくすり手帳、洗面台の上にあるけど」
「えっ、うわ、ちょっと濡れてる」
入院当日はバタバタと家を出ることになった。
彼が車で病院まで送ると言ってくれたとき、最初は助かるなあ、と思った。でもあとで考えたら、切なくなった。
十日くらい会えないんだよなあ。大丈夫だと思うけど、手術に百パーセントはないもんな。最後になる……なんて縁起でもないけど、ちょっと考えちゃうし。だったら送ってもらわないほうがいいかな。いや、せっかく送ってくれるって言ってくれてるんだし。うーん。
そんな私の葛藤を、彼は知ってか知らずか、スムーズかつ慎重な通常運転で、病院に向かった。
私は運転している彼の横顔を眺めた。
二十年前からずっと、渋くてかっこいい男だ。モテるだろうに、よく私を選んだものだ。好みが変わっているんだな、きっと。
「なに」
前を向いたまま、彼は一瞬、視線を私に向けた。
「あ、いや……。えっと、お見舞い、コロナ以降、ずっと禁止になってるから、来なくていいからね。着替えとかも全部レンタルにしたから、なにも取りに来てもらうものはないからね」
「うん、わかってる」
「ああ……あと、退院のときは自力で帰るから」
「あ、朝、迎えに行く」
「え……」
「心配だから」
「あ、うん。ありがとう」
心配だからね……。
病院のロビーで受付を済ませるまで、彼は一緒にいてくれた。
「じゃあ、行くね」
私は彼の手から荷物を引き取った。
「メッセージ、するね」
「うん」
「冷蔵庫に油揚げ、入ってて。消費期限、今日だった」
「わかった。今夜、中にひき肉入れて、焼くよ」
「えー、食べたい」
「退院したら、また作るから」
「わかった。約束ね」
「行きなよ。俺も仕事、行く」
「……うん。じゃあ。ありがとう」
エレベーターの扉が開いた。
彼がもういないのはわかっていた。仕事に遅刻してしまうから。
でも、残像だけでも……なんて思って、私は受付のほうを振り返った。
あ……。
受付の向こう。ロビーの隅。
彼の渋い顔がニコッと笑顔になった。皺が増えたその顔を、やっぱりとても好きだと思った。
千里が手術をすることになったと知ったとき、怖くて指が震えた。
失敗するような手術じゃない。知っている。さんざん調べたんだから。それでも、万が一でも、千里を失うのが怖い。
俺は自分の気持ちを素直に表現することが苦手だ。
千里が好きだと言ってくれたとき、本当はとっくに俺は千里を好きだったのに、それも言えなかった。
千里はいつもまっすぐで、何をしていても楽しそうで、プライドが邪魔するようなこともない。目をキラキラさせて、好奇心いっぱいで、大切なものを失くしていない、魅力的な女性。この二十年、飽きる暇も、冷める暇もなかった。
病院のロビーで離れがたい気持ちを抑えるのは、とても苦しかった。
「行きなよ。俺も仕事、行く」
仕事を理由にしないと、離れられないような気持ちでいっぱいになった。
大丈夫。たった十日。手術は成功するし、また今まで通りの生活になる。絶対千里を失ったりしない。
俺は受付を離れて、かろうじてエレベーターが見えるロビーの端に移動した。
好きだと伝えていないことを、後悔したくない。
エレベーターの扉が開いた。
千里。振り返って。あと一度だけ、キラキラした目を俺に見せて。
あ……。
俺はちょっと泣きそうになったのをこらえて、笑ってみせた。
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