第1話 月下の剣客

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第1話 月下の剣客

日月交差するとき運命の門開かれ  日月一つになるとき運命は転変する  寛永元年八月二十五日。  葉落月(はおちづき)、不気味な皆既月食の日の、浅草橋は(くれ)四つ。  二十六夜の高輪(たかなわ)辺りであれば名物、月見の賑わいの残り香があるだろうか、月食ともなると皆、不吉な時間が早く過ぎればいいと就寝してしまう時間。  だというのに夜更けに、手狭い旧木で誂えられた酒屋の中。   黒紋付着流し姿の佐々木幻磨(ささきげんま)。 当年数えで二十歳の彼は立ったまま、一升入っていたはずの片口をカラカラと振り、一滴も残りがないのを確認すると、わずかに杯に残された冷酒を一気に口元へと運んだ。  なにも旨くて飲んでいるのではない。酒気を借りねば、とても冷静ではいられないからだ。当然、悪酔い。寛永御前試合(かんえいごぜんじあい) 「よりにもよって今宵は(ぼう)に月もなしとは。拙者、立身栄達の道途絶え、孤剣虚しく江戸の片隅に散る、か。天下の銘刀日光天兼先(にっこうてんかねさき)も極めた武芸も、佐々木幻磨に過ぎた二品よ! ははっ!」  幻磨はすでに客のいない酒屋内で宙空に吠えるが、当然返答はない。 「武芸……か。戦国の夢がまだ完全に明けきらぬというのに、戦の技で食っていけないとはおかしな話よ。いや、せめて将軍家御前試合に出ることさえ叶えば、出世も相成ったはず。相手が誰であれ、拙者なら斬れた。だというのに、何が御前試合を取り消す、だ!」  寛永御前試合(かんえいごぜんじあい)。  武芸を好み見巧者として知られる徳川三代将軍、家光公が天下の名だたる武芸者・兵法者を集め試合をさせようとした、いわば娯楽。しかし将軍の娯楽なりに、御前試合を機会に栄達を掴めると期待している参加者も多くあった。  貧乏御家人の三男坊で冷や飯食いの部屋住み幻磨も、仕官の好機と期待していた一人。  持てる縁故を動員し、なけなしの金子をすべてはたいて、試合参加の推薦までは取り付けた。そこまではよかった。  しかし時の老中、酒井讃岐守忠勝(さかいさぬきのかみただかつ)は突然『御前試合に益なし』と家光に諫言。  数年後に開かれるはずだった寛永御前試合は急遽中止と相成った。  自らの腕前に絶対の自信がある幻磨にしてみれば、みすみすと目の前の栄達の機会を逃したに等しい。  思い返し怒声を上げ、杯を投げ捨てる幻磨。 「仕官の道さえあれば、拙者も齢十七程の妙齢細身の娘を内儀に娶り、一家を為せたというものを!」   嫁の当てなどさらさらないが、とりあえず幻磨は要望を色濃く混じえながら吠えた。  漆器が地面でカラン、カランと音を立てる。 「お武家様……あの、そろそろ……」  酒屋、といってもつまみの類は出さず酒だけを売る店主、が困ったような口調で、だが顔には無理やりな笑顔を張り付けながら幻磨に語り掛ける。  もう時間が遅い。店を閉めたいのだ。ただ、店主は幻磨を怒らせるのが怖くて直言を控えている。 「拙者が武家に見えるか? なるほど武門の出ではあるが、ただいまこの身は天下の素浪人よ! わかったら酒だ、もっと酒を寄こせ!」 「申し訳ありません、あの、でしたらお代の程は……」 「金か、金が欲しいのか、結局世の中金か。貴様も強欲な金人間の一人か! ならば……ならば、ええい、我が身はすでに無文よ! なんであれば稀代の銘刀・日光天兼先を酒代に化かしてやろうか? そもそも銘刀と言っても他に名を聞かぬ拙者の自称だがな!」  刀を抜き、文字通りにドスを聞かせて店主を脅す幻磨だが、自身でも無茶を言っているのは理解している。ただ無念さ、悔しさといった負の感情が怨嗟の洪水となって、罪のない酒屋の店主を脅さずにいられない。  それに。 「なぜ笑う、店主よ! 怒るなら怒れ、怖いなら泣け。なぜ拙者に偽りの笑顔を見せる! 真の笑顔とはな、真の笑顔とはな……」    深酒が過ぎたのか。急に眩暈に襲われて、幻磨はそれ以上店主に言わず、千鳥足で店の外に出た。  江戸という狭隘(きょうあい)な都市、堅苦しい階層社会、世の中。弱者、身分が下の者は強者である社会的上層階級から理不尽を強いられても、媚びるように笑いしのぐしかない。愛想笑いは弱者の処世術だ。  立身のため武芸を研鑽しながら叶わず、一介の浪人に成り下がった幻磨自身もいつか、生きるために酒屋の店主のように誰かに媚びへつらい笑うのか。  努力のために強く踏み出した足が地面に飲まれ、いつしか全身もぐいぐいと底深くまで沈んでいく。  一見、平和ではあるが、人生を重ねた先に未来がないこの国は泥の沼だ。野垂れ死にの自由を許容するのは、社会としての多様性ではなく幕府の無策が産む狂気だ。  偽りの笑顔に充たされた江戸などいっそ壊れてしまえばいい。  そんな物騒な思考がチラつくが、幻磨も根はそれなりの常識人。慣れない酒量の勢いを借りて今は居直っているものの、いざ酒気が覚めれば社会変革だの体制への不満などは一切、口にしない性質。  世界の終りのような月虹の朱色に照らされて、幻磨は当座の宿へ足を向けた。  と。 「どなたか! どなたかお救い下さい! 希念(きねん)様をお救い下さい!」  男の声。救いを求めているがどこか弱弱しくもある。  夜更けの江戸の路上には他に人もなく、何者かと幻磨が声の方を辿っていくと、裏長屋の井戸沿いで、裳付き姿をした一人の年若い僧侶が倒れていた。  息も絶え絶えな僧侶の様子に幻磨が疑念を抱く。 「一体何事か。お主、どこの寺の者か?」 「あっ……お侍様、私は高野山の律師(りっし)を務める富獄(ふがく)と申します。お助け下さい、どうか希念様をお救い下さい!」 「肩から血が出ているぞ、急くな。今、水を汲む。水を飲んでからでいい、ゆっくりと仔細を説明しろ」  富嶽はどうやら刀傷を負っているようだ。  何者が高野山の僧を斬るなどという蛮行をするのか、皆目見当が付かない。だが捨て置く訳にもいかず、幻磨は富嶽に水を与えて落ち着かせ、言葉に耳を傾ける。  富嶽は振り絞るように声を出す。 「希念様は高野山で『星詠(ほしよみ)の座主』と呼ばれる特別な、占星を司る方でございます。その力は歴代の星詠の座主のなかでももっとも強いほど。年に数度下山し、吉凶占いを将軍家に伝えるのがお役目ですが、先ほど賊に襲われ、私は斬られ、ほうほうの態で逃げ出しました」  咳をしながら富嶽は必死に続ける。 「希念様は攫われてしまいました。一刻も早くお助けせねばなりませぬ。希念様は将軍家にこう伝えておられました。『日月交差するとき運命の門開かれ、日月一つになるとき運命は転変する』と。凶兆に違いありません。どうかお助けください!」 「坊主を(さら)うとは、世の中にはとんだ悪漢がいるものだな。良かろう、これも一つの縁。富嶽よ、希念を助けるのは拙者があい請け負った。して賊が一体、どの方角へ向かったかはわかるか?」 「私は平素山籠もりの身にて、江戸の地理に詳しくありませんが、神田という地名が聞こえた気が致します。お願いいたします、希念様の力は世を守る盾であり、同時に矛。悪用されれば世にいかな災いの転変が……ぐはっ!」  水を飲ませたのが逆効果だったか、富嶽は吐血し絶命した。 「なんと無念であったろう、富嶽。南無阿弥陀仏、でいいのであろうか、高野山的に。拙者、信仰の道に詳しくない故許せ。いや、念仏供養よりも先に神田か。……近いな、今から走れば間に合うはず」  富嶽の遺体に合掌すると、幻磨は一路、神田へと向かった。
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