第3章 お菓子の魔女

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第3章 お菓子の魔女

   1 「――魔女のケーキ屋さん?」  ゴールデンウィークが終わってから数週間。そろそろ六月になろうかという五月末。唐突に僕は肥田木さんに呼び出された。  放課後の食堂裏で肥田木さんとふたり向かい合っていると、グラウンドからは運動部の走る足音や掛け声が響いてくる。  肥田木さんはひと足早めに夏服に制服を切り替えており、髪型も入学時のようなツインテールから、ふわりとしたポニーテールにしていて、それもまたとても魅力的で可愛らしかった。  半袖シャツから伸びる細い両腕で、まるで拝むように僕に向かって手を合わせながら、 「ぜひ、一緒に行ってほしいんです。そのお店に」  と期待の眼差しを僕に向ける。  僕たちの周りには、僕と肥田木さん以外、誰の姿も見当たらない。  真帆もいない。鐘撞さんもいない。食堂のおばちゃんたちも後片付けが終わって帰ってしまったのだろう、しんとしていて物音ひとつ聞こえてはこなかった。  僕は食堂裏の壁を背にして、何と答えれば良いものか悩んでしまう。  つまるところ、デートのお誘いのようなものである。たとえ肥田木さんにそんなつもりがなかったとしても、ここで「いいよ」と軽く答えてしまったら、きっとあの真帆からまた「浮気ですか~?」と怒りに満ちたニヤケ顔で迫られてしまうに決まっているのだ。  そう、問題は我が愛しの、そして恐るべき彼女である、真帆の許可次第なのである。  そんな僕の逡巡に肥田木さんも当然気付いているのだろう、 「大丈夫です!」と力強い言葉で、「真帆先輩にはちゃんと許可とってますから! 一日限りの恋人券、頂きました!」  どこからともなく肥田木さんが取り出してきたのは、横十センチくらい、縦五センチくらいのノートの切れ端で、そこには可愛らしい丸文字で、『恋人一日貸し出し券 五月末日当日限り』とあり、わざわざピンクのハートや黄色い星が散りばめられていて、まるで子供が親に渡す肩たたき券そのものである。 「……なに、それ」 「真帆先輩に相談したらその場で描いてくれました!」 「……そうなんだ」  僕はもう、なんて言ったらいいのか、そもそも何を言うべきなのか、言う必要があるのか考えた挙句、 「――で、どこにあるの、そのお店」  これ以上は訊ねないことに決めたのだった。  肥田木さんは『恋人一日貸し出し券』をどこぞへしまうと、今度は携帯電話を取り出してちまちまとボタンを操作してから、僕の方に画面を向けてくる。 「ここです。歩くとちょっとだけ遠いんですけど、バスに乗っていけば全然近いです」  小さな画面に映し出された不鮮明な地図には、けれど位置関係くらいはちゃんと確認することができて、どうやらここから北にだいたい四キロくらいの、小さな山の麓にあるお店らしいことは見てとれた。  店の名前は『Hexen-Konditorei』。ヘクセンコンディトレイ、だろうか。Hexeがドイツ語で魔女のことだから、魔女の何かってことなんだろうけれど、全然意味が解らない。  それはそれとして。 「でも、どうして僕と? 何か理由があるの?」 「そうなんです」と肥田木さんはこくりと頷き、「実はそのお店、恋人と一緒じゃないと注文できないケーキセットがあって、どうしてもそれを食べてみたかったんです。だけど、仲の良い男の子がいなくて、仕方なく」 「……仕方なく」  ……いや、いいんだけどさ。でも、なんだか釈然としないのはなんでだろうね? 「いつも真帆先輩とふたりでケーキ食べに行ってましたよね? パティスリー・アンでしたっけ? なので、そういうお店にも慣れてるかなって思って、シモハライ先輩だったら一緒に行ってくれるんじゃないかと真帆先輩に相談したら、一日くらいだったらいいですよって」  なんかまるで僕が真帆の所有物みたいな扱いだなぁ、と思いはしたけれど、まぁ、いいか。 「で、いつ行くの? 今から?」 「はい! お願いしてもいいですか?」  そんなわけで、僕と肥田木さんは学校をあとにし、近くのバス停からバスに乗り込んだ。  ちょうどふたり掛けの席が空いていたので、窓側に肥田木さん、通路側に僕は腰を下ろす。  こうやって真帆以外の女の子と並んでバスに乗るなんてこと、初めてじゃないだろうか。  となりに座る肥田木さんからは真帆とはまた違った甘い香りがして、なんだか妙に居心地が悪かった。まるで本当に浮気でもしているかのような錯覚に陥って、どうにも落ち着かない。  よくよく考えてみれば、僕だって真帆以外の女の子と付き合ったことは一度もない。付き合ってみたいかと問われるなら――さて、どうだろうか。よくわからない。  真帆のあの強引さとか身勝手さとかを考えると、もしかしたら他の子と付き合った方が……なんてことを考えたりしないこともなくはなかったりする。  しかし、果たしてそもそも、女の子とふたりで出かけるだけのことで本当に浮気になるのだろうか。自分が考え過ぎているだけなのではないだろうか。だからこそ真帆もあんな『恋人一日貸し出し券』なるものを書いて僕(或いは真帆自身への)何がしかへの免罪符としているのではないだろうか、なんてことを考えたりして、結論なんて全くでなかった。  肥田木さんはしばらくの間、窓の外を眺めながらフンフン鼻歌を鳴らしていたのだけれど、 「――あ、次ですよ、先輩」  僕に振り向くとおもむろにそう口にして、僕は「あ、うん」と短く答えただけだった。  それから間もなくしてバスは停車した。僕らはバスを降りると、たくさんの家々が建ち並ぶなか、小さな緑の山へ向かってその住宅地を進んでいった。どこにでもありそうな、ほんとうに何の変哲もない、普通の住宅地。こんなところに、本当にお店なんかあるんだろうか、と訝しみ始めた頃、 「ここです、ここ!」  肥田木さんが満面の笑みで指さすそこに建っていたのは、 「――これは」  僕はその建物を見て、思わず言葉を失った。  そこに建っていたのは、見るからに怪しげな、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』を彷彿とさせる、お菓子でできたおかしな家、だったからである。
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