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診療所
その男が凪沙慧の診療所へやって来たのは、全てが霧に覆いつくされた早朝の事だった。
凪沙は仕事場から少し離れて、同じ敷地内にある居住区から、レジに入れる釣銭用の小銭を取り出してきた。
営業時間外の看板が掛けられた扉を開く。
先に暖房器具の電源を点けていたおかげで、室内は暖かい。寒暖差で眼鏡が曇って、服の裾で拭いた。
「すみません」
真横、それも至近距離から声がしたものだから、大変肩を跳ねさせてしまった。
慌てて眼鏡をかけて顔を向けると、一人の男が立っていた。
人が寄り付きにくいことに甘んじ過ぎた。医薬製品があるのだから、少しでも留守にする時は、鍵を掛ける位の防犯意識は持ち合わせているべきだった。
従業員は居らず、凪沙は一人で診療所を回している。診療所は山中にあり、最寄り駅まで片道三時間掛かる。他の公共交通機関といえば、予約制の乗合バスとタクシーが幾らか走っているくらい。特にバスは元より近隣住民の日常生活における移動目的で設置されたものだから、観光客は利用方法を殆ど知らない。尤も観光案内所に行けば教えてもらえる。インターネットで調べてもほぼ同等の情報が手に入る。
それでも、ここまで実際にやってくる人は非常に少ない。
「時間前にお邪魔してすみません。依頼があって来ました」
凪沙は幽鬼の様な男の顔を見たまま、固まっていた。ハッとして眼鏡のブリッジを触る。
「あ、えぇと……治療ではなく、ご依頼……ですか。一先ず奥へどうぞ」
レジを開き、小袋ごと突っ込む。診察室ではなく応接室へ続く扉を開く。
男は会釈して、扉を潜った。コートを脱いで、腕に掛け、部屋の中をキョロキョロと見渡していた。
「コートはこちらで預かりますよ」
「いえ、大分汚れているので……」
「抱えっぱなしでは窮屈ではありませんか? 大丈夫です、多少の汚れなど気にしませんよ。簡単に綺麗にできますし」
男は唇を硬く引き結び、それからおずおずと「そうですね。では、お願いします」と言った。
「お預かり致しますね」
凪沙はコートを受け取り、ラックにハンガーで吊るした。
応接室に備え付けられているキッチンに入る。戸棚を開いて、飲み物を吟味する。
凪沙はソファに座っている男に向かって声を掛ける。
「なにか飲まれますか。大抵の物はありますよ」
「では、紅茶を。ストレートでお願いします」
「分かりました」
戸棚から、鎮座していたダージリンの缶を手に取る。久々に動かした来客用の戸棚は、些か埃っぽかった。缶の縁に詰まっていた埃は分解して空気に溶かした。
ティーポットに二杯分の茶葉を入れ、魔法瓶から湯を注ぐ。蒸らしている間にカップとソーサーを二つ取り出した。
「お茶菓子はクッキーで宜しいですか」
「はい。お気遣いありがとうございます」
全てをワゴンに乗せ、応接室へ運ぶ。
机に置かれた紅茶は甘く、どこか渋みのある香りを漂わせていた。
凪沙はワゴンを片付けて、タブレット端末を片手にソファに座る。
「……頂きます」
男は紅茶を口に含んだ。白い喉が動いた後「美味しいですね」と硬い声で呟いた。
凪沙もカップを傾ける。口内が温まると喉が緩む。
「本題に入らせて頂いても構いませんか」
「はい。問題ありません」
凪沙がカップをソーサーに戻すと、男もカップを置き、姿勢を正した。
「それでは、問診票へ御記入をお願いします」
「わかりました」
男へタブレットを渡す。暫くしてタブレットが凪沙の下へ帰ってきた。
問診票の備考欄に依頼が書かれていた。凪沙の体が硬直する。
「……本街さん、宜しいのですか? 重大なお怪我をされているようには見えませんが。それに……貴方へ尋ねるのは野暮でしょうが、かなりの費用が掛かりますよ」
氏名欄に書かれた名前で呼ばれた男は、ゆっくり頷いた。
「理解しています。けれど、どうしても全身を機械に替えて頂きたいのです」
凪沙はもう一度画面に視線を落とし、そっと息を吐いた。
本街辰弥。年齢二十七歳。職業、総合化学メーカー社長。見たことのある顔だと思ったら、新聞にテレビ、雑誌……あらゆる媒体にて、将来を約束された若きホープだと取り上げられていた青年だった。
本街の会社は合成樹脂による人工皮膜の生産、販売している。機械の体を得るに当たって欠かせないものだ。
数日前に交通事故に遭い、以降、行方知れずになったと新聞で読んだが、どういう訳かこんなところにいる。
西暦三七五九年現在、科学は魔法の領域に到達した。いや、魔法を凌駕した。自然界に存在する全ての科学元素の特性や構成が明らかになり、更には実験室内で作成されるようにすらなった。畏怖を込めて「錬金術」と逆行した呼び方をするものもいる。
数式一つでエネルギーを作り出し、無の空間から鋼鉄を生み出す。残念ながらラプラスの悪魔は誕生していないが。
錬金術の呼び名が相応しい科学は、あらゆる分野の発展に貢献し、多くの最新技術が開発された。
その中でも、特に人々の注目を集めたのが、機械置換。近年、一般に普及し始めた最新の医療技術である。
現在の科学技術を以てすれば、人間の肉体組成を変化させることすら容易になった。それは医療技術の大幅な向上と、人間の健康寿命の延長に繋がった。
例えば、機械に体を挟まれ、下半身不随になってしまった。生まれながらに身体障害を患っている。
その様な人々の身体組成を変化させ、機械の身体で人生を歩む。
凪沙は四肢が置き換わっている。研究中の事故で機能を失ったのだ。
肉体を機械に替えること自体は容易なのだが、如何せん「皮膚は人工樹脂、筋肉までは機械」などと細かく素材を変えることができず、仕組みは解明されているものの、実用化にまでは至っていない。
また、本人の肉体を機械へと変化させるだけなので、寿命そのものは変化していない。健康に過ごせる時間が延びるに留まっている。
少し前まで、置換を受けた患者は鋼鉄を剥き出しにして生きていた。
本街の会社は、機械の体を肉体に寄せることに一役買っている。開発した超軟質のポリウレタンゲルの触り心地は、人肌と間違うほどの精巧さである。
凪沙はそう言った経緯から本街の事を知っていた。けれど、あまりに人相が変わってしまっていた為に分からなかった。
「数日前に友人が亡くなりました。私達は互いに唯一無二の友人で、理解者でもありました。彼が亡くなって以来、彼の話をする者は減り、私も仕事に忙殺される中で、彼を思い出す時間が短くなりました。今では食事すらも手に付かず、挙句、彷徨い歩く日々です。疲れ果て、眠ることすら恐ろしいのです」
本街は顔を覆い、頭を下げる。露わになった腕は成人男性にしては細く、まるで骸骨だった。
凪沙は交通事故の報道がされた時、同乗者が一人死んだと聞き及んだ。それが本街の友人だったのだろう。
「先生、どうかお願いします。友人の事を忘れたくありません。彼が消え去ってしまうことに耐えられない」
精神医療の行為として、置換を行うことは法律によって許可されている。現在、本街は重度の鬱状態であり、早急に治療が必要だ。
そう結論づけ、凪沙は深く頷いた。
「お受けいたしましょう。脳以外の全てを機械と置換致します。弊害も御座いますが、宜しいですか」
本街は顔を上げる。彼が診療所に来て以来、初めて浮かべた満面の笑みだった。
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