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機械の体
目を覚ました。
寝汗が激しい。掻いていない。
額を汗が伝っている。伝っていない。
鼓動が早い。鼓動は無い。
悪夢を見た。これは本当。
機械の身体を得て、三か月。望んだものは得られなかった。
私は再び、凪沙医師の下を訪れていた。
凪沙が山奥に診療所を構えた理由は「都会は人が多すぎる。私は、私の診療所を訪れる全ての患者の願いを丁寧に叶えたい」との事らしい。
凪沙は医学会でも有数の医療技術と知識の持ち主で、あらゆる困難な症例にも応じ、手術を成功させてきた。元々の専攻は化学であり、医学博士の他、理学博士の称号も取得している。遍く元素の構造を理解し、活用できる彼の名を、理学界隈で知らない者はまずいない。
私は疲れ知らずの機械の身体に酷使して、飲まず食わずで山を登った。鋼鉄が煩わしくて堪らなかった。
扉を開くと、凪沙は受付で内蔵模型を磨いていた。本日は営業時間中にやって来たのだが、相変わらず待合室はがらんとしていて、BGMが流れているだけだった。
凪沙は私を認めると「お待ちしておりました。本街さん」と、医学界の権威にしては頼りない笑みを浮かべて、私を奥へ案内した。
自社製品である人工樹脂に覆われた機械の身体を引き摺り、凪沙の後をついていった。
通されたのは応接室ではなく、診察室だった。
凪沙は丸椅子を示す。
「こちらへお座りください」
凪沙自身はデスク前の椅子に腰かける。椅子に触れるか触れないかの寸前で、私は凪沙に縋り付いた。掴んだスラックスと樹脂の下で、金属同士がぶつかり合う鈍い音がした。
「助けてください。忘れていくんです。彼を、彼の事が頭から抜け落ちていくんです」
「本街さん、落ち着いて……」
「写真や動画を見た時にしか彼の事を思い出せないんです。頭にはもう曖昧にしか残っていないのに、私の目は画像の友人を否定するんです。違うと喚くんです」
友人の姿は思い起こそうとしても、鮮明には思い出せなくなってきた。声や匂いなど、記憶から薄れやすいと言われる要素は、既に記憶から消えてしまっている。機械の身体になってから、忘却は顕著だ。感覚神経がセンサーに置き換わってしまったことで感覚が曖昧になり、日常のふとした瞬間に思い起こせた友人の姿は一切掻き消えた。私は、元の私ではなく、私の役目を果たすだけのロボットになってしまった。
凪沙は呟いた。
「それが全置換の弊害です。全ての患者様が通る道であり、孰れ馴れる感覚ではありますが、術後三ヶ月で未だ違和感があるということは拒否反応の可能性も御座います。加えて、機械の体は既に本街さんの本意ではありませんよね」
私は必死で首を振ったつもりだった。油を差すのを怠っていた首はギシギシと動くばかりで、ちっとも上下に動かなかった。
「このままでは彼を忘れてしまいます。その前にどうか処置をして下さい。不可能であれば、いっそ殺してください。彼を忘れては生きていけません」
「安楽死をお望みということで宜しいですか。どちらの御依頼をも達成する方法は勿論あります」
「是非……是非、教えてください」
たった三か月で掌を返した愚かさは棚の上に挙げる。今は友人の姿を思い出すことが最優先だった。
友人とは人生の半分以上を共に過ごした。彼が隣にいた時間は人生の絶頂期だっただろう。もしも彼と共に死ぬことが出来るのなら、これ以上に幸せな事はない。
凪沙は私の手をゆっくりと開き、包み込んだ。スラックスには深く皺が寄っていた。
「一部分だけ脳を替えるのです。ご友人との思い出だけを繰り返す様に調整致します。肉体に戻れば、感覚は元通りになりますし、ご友人を正確に思い出すことも出来るでしょう。処置を行えば、記憶を繰り返す以外の脳の機能がゆっくり停止していきます」
「それはいい。お願いしたい」
「分かりました。御身体の全ての機能が停止しましたら、肉体は如何なさいますか」
「もう家族もいません。先生の良いようにしてください」
「本街さんの肉体は悪用される可能性が高い。焼却させて頂きます」
私は何度も頷いた。錆びつき始めた首関節は、やはり上手く動かなかった。
手術はすぐに始まった。機械置換術には誓約書などは必要ない。自分を構成する元素をどう扱おうと個人の勝手だ。
元の肉体が健全に動かない場合はその限りではない。他人から肉体を買い取るという手段も存在し、その場合は面倒な手続きが必要になる。
手術台に寝かされ、酸素マスクを嵌められた。凪沙が覗き込んでくる。
「麻酔を施して脳を寝かせてから主電源を落とします。宜しいですね」
「はい」
「それでは、手術を開始致します」
マスクから麻酔ガスが流れ込んでくる。ウトウトし始めた頃、センサーが停止した。視界が暗転し、何も分からなくなった。
どの位眠っていたのか。いつの間にか意識が戻っていた。
「終わりましたよ。御気分は如何ですか」
凪沙の声は脳に伝わらない。耳に入っているものの、上滑りして意味を理解できず、状況に当て嵌まる単語を探す気にもなれない。思考することが出来なかった。
私は友人と過ごした日々を眺めるのに夢中だった。
空は地球を一周してしまいそうなほど晴れ渡り、輝く鱗雲が浮かんでいる。
彼は叔母に連れられて、私の実家にやって来た。
「ほら、辰弥。春彰君にご挨拶なさい」
初子故に過保護に育てられた私は、昔は引っ込み思案な性格で、母のスカートを掴んだまま後ろに隠れ、ずっと側を離れなかった。
間中春彰は従兄弟ではあるが、初めての家族以外の他人だった。そして、私が初めて目にした機械の身体を持つ人間だった。
春彰は生まれながらに身体障害を患っており、出会った当時には既に、首から下が全て機械だった。側を通ると機械油の香りがした。
機械置換技術は当時は普及しておらず、実用的な人工皮膜も存在していなかった。機械の身体を持つ春彰は、私にはお伽話か、夢幻の存在に思えた。
母親達は大人の話があると言って、私達を残して奥へ引っ込んでしまった。
春彰はニコリと笑って、首を傾げた。鎖骨が見える筈の所には、鈍色の外骨格が剥き出しになっていた。
「僕と遊ばない?」
「……遊ばない」
「どうして? ここにはブランコがあるんでしょう。僕、それで遊びたい」
「危ないから遊んじゃいけないって言われた。案内するから、遊ぶなら一人で遊んで」
私は一刻も早く部屋の中に入りたくて、足早に春彰の前を歩いた。
春彰は唇を尖らせて、後ろを付いてきた。
実家の裏庭は小さな庭園になっており、四季折々の花々が咲き乱れていた。アイアンテーブルの他に、インテリアとしての遊具も備え付けられており、ブランコは風が吹くと、キィキィと音を立てて揺れた。母には禁止されていたが、そんな風景を見る度に、私はそれに乗ってみたくて堪らなかった。
春彰はブランコに一直線に駆けて行こうとして、振り返り、私の手を掴んだ。
「僕が乗れるようにするよ。大丈夫、任せて」
鋼鉄の身体に温もりは無い。春彰から伝わる温度は母と手を繋ぐ時よりもずっと低い。
春彰は先にブランコに座った。
「僕が下に乗るから、辰弥は僕の方向いて上に乗って。それから背中に腕回して、ぎゅってしてて。絶対に離したら駄目だよ」
「僕、重いよ。体も痛くなる……」
「大丈夫。力持ちだもん。辰弥より大きいし、落ちたって平気。辰弥が怪我しない様に出来る」
春彰は笑顔だったが、有無を言わせない圧力があり、絶対に退かない意思を感じた。
私は仕方なく、春彰の太腿を跨ぎ、背中に腕を回した。春彰を介して座ると、地面に足が付かない。安定感の無さに心細くなった。
「大丈夫、大丈夫……いくよ」
春彰はゆっくりブランコを漕ぎ始めた。ブランコの揺れは次第に大きくなり、暫くすると宙に体が浮いていた。
風を感じる。空が近い。雲や太陽に手が届きそうだった。地面に近付く時は、叩き付くんじゃないかと錯覚して、思わず目を瞑った。
「辰弥! 楽しいね!」
興奮した声がして、目を開いた。
春彰は頬を紅くして、目を細めていた。本来の肉体は透き通るように、僅かに熱気を放っていた。
私は熱気に中てられて、春彰の肩に顔を埋めた。首筋からは香木の香りがした。
春彰は最後まで言葉を違えなかった。私の側を離れず、傷付かない様に機械の身を挺して、私の肉体を守ってくれた。最期の瞬間まで、私の事を案じてくれた。
そんな記憶を何度、目にしたのか。数回の様な気もするし、何千、何百万回と繰り返したような気もする。
彼が目の前で死ぬ瞬間を思い起こすのは、一体、何度目だろうか。
呼吸はいつ止まる? 脳はいつ腐る? 私は何度、春彰を失うんだ?
こんな記憶はうんざりだ。春彰の顔から紅が消えていく光景など、もう見たくない。
凪沙は脳に仕掛けを施したと言っていた。脳を外してしまえ。
思い出に思考を塗り潰されながら、体を動かそうと必死になる。視界に過去が覆い被さって、まともに現実を認識できない。靄がかった景色の中、私の腕が視界に入った。まだ人工樹脂なのか。
近くに居る筈の凪沙を呼ぼうにも、声が出て来ない。
藻掻いている間にも記憶は繰り返される。春彰が私の腕で冷たくなっていく。
そのうち息苦しくなってきて、私は春彰の身体を落としそうになった。太腿と腹でどうにか抱え込み、想像の中で喉に爪を立て、がむしゃらに引っ掻いた。
不意に記憶が止まった。体が脱力する。
視界が正常になり、感覚も元に戻ってきた。
処置室に私はいるらしかった。検査着を纏い、ストレッチャーに寝かされていた。
凪沙が私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか! 脳波の乱れを検知したので機械を停止しましたが……」
「脳を、元に戻してください」
シナプスに詰まっていた感情が溢れ出す。年甲斐もなく、私は声を上げて泣き出した。
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