人間の心

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人間の心

 私の身体はすっかり元に戻った。  多少の筋肉の硬直は感じるが、概ね正常に動いている。言葉が上滑りすることも無い。 「術後の経過を見ますので、本日は診療所に留まって下さい。問題が見つからなければ、すぐに退院できますよ」 「そうですか。ありがとうございます」  診察が終わった後、与えられた個室に向かった。  ベッドと洗面台があるだけの簡素な病室だった。ベットの側には窓が付いている。太陽は既に沈んでいて、古紫の山側で一番星が呼吸を始めたところだった。  窓際でぼんやりと輝きを眺めていると、扉が叩かれた。 「凪沙です。お風呂の準備が出来ました。入られますか」 「はい」  開いた扉の先で、凪沙は寝間着を抱えて立っていた。 「下着は脱衣所にあります。適当な物をご使用ください」 「はい」  私は風呂場に行き、体を洗ってから湯に浸かった。抱えた膝に酸素が纏わりついては消えていく。髪から水が滴り落ちる。  にわかに脱衣場が騒がしくなった。 「本街さん、大丈夫ですか。もう随分とお風呂に入られていますよ」  気が付くと、先程まで立ち上っていた湯気は消えていた。  私はおずおずと口を開いた。 「あの、先生」 「はい。どうしましたか」 「私は、生きていていいんでしょうか。ずっと友人に助けられて生きてきました。彼を忘れては生きていけないと本気で思っていました。……けれど、私は友人と死ねませんでした。忘れたいと一瞬、思ってしまったんです。呼吸が止まるのが怖くて仕方ありませんでした。こんな私は無情でしょうか」 「……開けても宜しいですか」  私は暫し逡巡して、「はい」と答えた。  凪沙は扉の向こうでガタガタと動いていたが、すぐに扉を開いて、浴室に入ってきた。靴下を脱いで、スラックスの裾を捲り上げていた。私の腕を掴んだ。 「まずは出ましょう」  凪沙に促されるまま、浴槽から出ると、全身をバスタオルで乱雑に拭き上げられた。母親の、家で飼っていた猫に対する仕打ちに似ていた。  下着も凪沙が選び、 「はい、足を上げて」  とまるで幼子の様に寝間着まで着させて貰った。  私が服を着ると、凪沙は満足げに鼻を鳴らした。 「では、病室に戻りましょうか」  病室に戻るまでの間、凪沙はずっと私の腕を掴んでいた。 「勝手にいなくなったりしませんよ」  と伝えると「生きていていいのかと聞いてきた人間が何言ってるんですか」と真顔で言われた。  病室に戻ると、窓は暖房によって白く結露していた。奥には先程までは無かった点滴の準備が成されていた。 「寝てください。鎮静剤と点滴を打ちます」  私はベッドに潜り込んだ。暫く大人しくしていると、体温は徐々に上がってきた。  凪沙は慎重に、私の腕に針を通した。吊り下げられた袋から液体がぽつぽつ落ちていた。 「今日は本街さんが眠るまでここに居ますので、ご安心を」 「そうですか。お手数をお掛けします」 「いえ、私の使命ですから」  乾いた笑いを漏らす私の横で、凪沙はベッド脇から丸椅子を取り出して座った。息を吐いて、背中を丸めた。 「人間は忘れる生き物です」  唐突な言葉に一瞬困惑したものの、すぐに浴室での私の問いに対する答えだと思い至った。 「あくまで持論ですが、人間は忘れ、幸にも不幸にも適応する生き物です。また人間の寿命は延び続けており、一口に百年と言っても、途方もなく長い時間です。一つの思い出だけでは、生きられないのではないでしょうか」 「先生は、忘れることは自然な事だと仰るのですね」 「はい。忘れ行きながらも時折思い出し、新しい記憶と共に生きていくのが人生だと。私は過去よりも、未来へ思いを馳せるべきだと考えております。……本街さんが薄情であるとは断定し難いです。尤も、私の場合は人間も原子に還るだけと考えてしまうので、参考にはならないでしょう」  あまりに凪沙らしい思考に、愛想笑いする他なかった。  凪沙は背中を伸ばして立ち上がった。腰からポキポキと関節が伸びる音がした。 「考えるのは明日にして、今日は眠りましょう。鎮静剤がそろそろ効いてきますよ」  私の頭はいつの間にか自分では支えきれないほどに重くなっていた。重力に負けて、枕に頭を預ける。 「おやすみなさい、本街さん」  電気が消され、無意識に落下していく。瞼の裏でブランコが揺れていた。  アラームに起こされるでもなく、目を覚ました。時間は午前八時。普段の起床時刻より二時間も遅い。  カーテンを閉め忘れた窓からは、暖房器具の熱風よりも暖かな陽光が差し込んでいた。  頭はすっきりと晴れ渡っているが、目の奥だけがじくじくと痛み、鼻が詰まって苦しかった。眦には未だ涙が溜まっており、瞬きをすると零れ落ちてきた。  春彰の夢を見た。幾度も繰り返した記憶だった。唯一、異なるのは悪夢では無かった点だ。内容はあまり覚えていない。目が覚める直前の春彰は笑っていた。それだけは覚えている。  体を起こすと、隣には丸椅子で眠っている凪沙がいた。  電気を消した後、私が眠るのを見届けてそのまま寝落ちたのだろう。頭は危なっかしく揺れているが、器用なことに体勢を崩す寸前でぴたりと止まり、安全な姿勢に戻っていった。  そんな動きを繰り返している内に、ゴンッ、と頭がベッドにぶつかった。 「いてっ」  凪沙は頭を擦りながら、目を覚ました。 「おはようございます、先生」  挨拶をすると、ばつが悪そうに顔を逸らされた。 「……おはようございます。よく眠れましたか」 「……はい。とても」 「それは良かった」  凪沙は顔の中心から大きく外れた眼鏡を直し、伸びをした。そして、また頼りなさげな笑みを浮かべた。 「お腹は空いていませんか。昨日は点滴だけでしたから」  締りかけていた涙腺が再び決壊した。  凪沙は丸椅子を蹴倒して立ち上がり、私の背中を擦った。 「大丈夫ですか。どうかしましたか……」  私は凪沙のシャツを握りしめて泣いた。  雨と見間違う程、大粒の涙が落ち、凪沙のシャツの色を変えていった。 「お腹が、空きました」  春彰が死んでも、私の体は生きようとしている。  凪沙の言う通り、人間は忘れる。  春彰の存在も過去の事象として薄れ、泡の様に消えていくのだろう。鉄の体を得ても忘れていくのだ。老化していく生身では、百年も保たずに消えてしまうかもしれない。  けれど、その日はまだやってこない。遠い未来の話だ。  百年後にはきっと全てが変わっている。私は今度こそ機械の体を得ているかもしれないし、とっくに死んでいるかもしれない。  先の事など知る由もないのだから、今だけは春彰の記憶を抱いて、泣こうと思った。
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